2004年
11月28日

≪先週の説教から≫
 
主日礼拝式の聖書箇所は『マタイによる福音書』25:31〜46でした。最後の審判についてのところです。

 審判という言葉自体、裁判を思い起こす言葉です。決して心地よく響くものではありません。訴えられた者の、判決を待つような、また反対に、裁判に訴える者として判断を求めたにしても、決して気持ちの良いものではありません。聖書は、このような時が、一人一人に間違いなく、どのような生き方をしたかをめぐってやって来るといっているのです。生まれてから死ぬまでに行なった全てのことをめぐって審判がなされる、と言っているのです。それぞれの一生が、判断材料として早送りのビデオテープのように流されたとしたら、恐らく全ての人が、見るに耐えられないような後ろめたさと、山の様に沢山の罪を思い出すと思います。

 ところが聖書はこう言っているのです。主に対して決して良い振る舞いをしなかったと思っている人たちに、“あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、・・・(25:35)”と言われるのですが、“主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。・・・(25:37)”と答えているのです。すなわち、記憶にないのです。

 同じく良くない人々に、そのようなことをあなた方は、私と私の愛する者にしてくれなかった、と言われたとき、“主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか”と返事をしています。しらばっくれているというのではなく、これらの人々にもまた記憶としてはないのです。

 このような審判に私たちもまた臨むのですが、キリストの正しさと共に臨むのです。キリストの正しさと我らの罪が、あっという間に交換されてしまうのです。“当然こんなことをしてきたのだから無罪とはならないだろう”と、重い気持ちで、仮に私たちが臨んだとしても、びっくりする様な恵みをもって“無罪”と宣告されるのです。

 キリストが私達の罪の購いとなられた。と言いますが、審判の時こそこのことがはっきりすると思います。“あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである(25:45)”というのが、審判者なる、イエス・キリストの基準になっているのは、王に対してではなく“最も小さい者”に対してしたことだと、聖書は語っています。
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