2004年
11月21日

≪先週の説教から≫
 日曜日の聖書箇所は、主日礼拝が『使徒行伝』3:1〜26、夕礼拝では『イザヤ書』53:1〜6が開かれました。ともにクリスマスの出来事、「救い主の到来」に関する確認です。

 預言者たちは、実に明確にメシヤがやってきて、人々を罪から救いの道へと導いてくれることを確認していました。イザヤもその中に数えられます。“神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。”と、『使徒行伝』3:18には、ペテロの口を通して記録されています。私たちももうすぐ、この救い主の誕生を経験しようとしているのです。これがクリスマスです。

 イザヤが“彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:2〜3)”と救い主イエス様のことを知っていたのに、その人を見、声を聞いた人々がこの人を知らなかったのです。経験したことが分からないのに、旧約の人々ははっきりと知っていたのです。

 『イザヤ書』のこの箇所は、不思議なことに、“病を知るでしょう”などという予告的な表現ではなく、“病を知っていた”というもう既に起こった事のように、もう既になされてしまったかのように、完了したことを確認するような表現がなされています。ペテロもこのことを言っています。“あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。(3:13〜15)”と言っています。

 救い主のことを知らなかったら、もう一度、救い主を殺しかねないのが私たちの姿なのかもしれません。そしてここで記されている“私たち証人”というのはとりもなおさず、我々のことなのではないでしょうか。証人というのですから、質問されます。“十字架につけられ死にて葬られ、三日目に甦り、生けるものと死ねるものとを裁きたまわん”と、我々が言うことを、信仰における証人といえるのではないでしょうか。否応無くその証人にならざるを得ない時がやって来るでしょう。

トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置