2004年
11月14日
≪先週の説教から≫ 先週の聖書研究祈祷会の箇所からです。『イザヤ書』46章1〜7節を開きましょう。主要なテーマは偶像です。偶像(アイドル)については、聖書の実に多くの箇所で、それに頼ることのむなしさについて記されていることです。 4節を見てみましょう。“わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。”とあります。創造の神様は、私たちが金や銀を用いて、実に美しく作り上げた仏像のはるかに及ばない、思いと力を持って私たちを造られたがゆえに、このようにしてくださるというのです。 7節を見ましょう。“彼らはこれをもたげて肩に載せ、持って行って、その所に置き、そこに立たせる。これはその所から動くことができない。人がこれに呼ばわっても答えることができない。また彼をその悩みから救うことができない。”とあります。彫刻に叫んでみても返事がないのは当たり前のことです。しかし私達は、手にとって触れ、目で見ることの出来る偶像を実に魅力的に感じるものです。刻んだ像が、自分で動き出したら、それに願いをかけていてもびっくりしてしまうでしょう。すなわち、そのようなものにはなんの力も無いということを知って、そのようにしているのです。 しかしまた、見える、又は見せるということも大切なのではないでしょうか。仏教の寺院が美しく造られているのも、観音様の金ぴかなのも、素晴らしさを見せたいという思いがあって、従ってそこには効き目もまたあるように思いたいという、人の想いがあるようです。 申命記5:8には“あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どのような形をも造ってはならない。”とあるのに、教会もまた、荘厳な会堂を作り上げ、人々の心を魅了してきたのではないでしょうか。 つまり“飾らない”ということではありません。一切の装飾を、教会のサクラメントと冠婚葬祭から取り除いたとしたら、どんな事態になるか考えてみればわかります。 私たちが見せるのは何なのでしょうか。その答えが信仰告白にあります。神と主イエスの確認と、続く告白です。聖霊を信ず、のところです。聖徒の交わり、罪の赦し、礼拝において、これらのことが、間違いなく眼前に展開されて行くことを、もし見せるという言葉を使うのなら、見せるものといえるでしょう。 私達の教会も、やってくる人々に、主の恵と希望を見せることが出来ますように。 |
トップページヘ戻る | 説教集へ戻る |