2004年
11月7日

≪先週の説教から≫(先週は、大石兄によって説教がなされました)ヨハネ12:23−26。
この箇所は『死と命』がテーマだと思われます。私は、この御言葉に懐かしい思い出があります。それは、白百合教会で杉山あや先生が説教の中でこの箇所を『逆説』と何度も言われた事を覚えています。その後、三浦綾子さんの『塩狩峠』を読んで感動しました。文語約で『一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん、もし死なば、多くの実を結ぶべし。』ヨハネ12:24と覚えています。『人が友の為に命を捨てる、これよりも大いなる愛はなし。』この、ヨハネの福音書のイエス様の言葉が『塩狩峠』(ヨハネ15:13)の主題聖句と言われています。三浦さんもこの小説で犠牲について考えてみたいと思っていたようです。私達は、『犠牲』と言うと人の犠牲になるなんていやだとか、そんな犠牲的精神はつまらないなんて言われてしまいます。私達クリスチャンは、『犠牲』が聖書が示している(神への捧げもの)としての犠牲であることを忘れては成らないと思います。そこには自らの命を捨てて、私達の罪のために永遠の犠牲になった、イエス・キリストの姿が示されています。
●神の国を述べ伝えていたイエス様に『その時』が来ようとしていた。過越の祭りの為にエルサレムに行く途中ラザロをよみがえらせた事によって多くのユダヤ人がイエスを信じた。このようなしるしを行われた事を聞いた群衆がイエスを迎えた。そこでは、パリサイ人が言ったような、『何をしても無駄だった、世を挙げて彼の後を追って行ったfではないか。』と大騒ぎだった。そこでイエスは言った。『人の子が栄光を受ける時がきた。』と言われた。群衆がこれを聞いたとき一瞬ハッとした。旧約の時代から、神につながれた不思議な人物が現れ、神の力によって世界を支配し、自分達の前にひれ伏すと言われてきた。彼らが想像する栄光とは、(征服された地上の所王国が勝利者の足元にひれ伏す事)であった。ところが、続いて語られた言葉は勝利の言葉ではなく、犠牲や死などと言う言葉で語られたので彼らはびっくりした。イエスが、栄光を受けるとは、十字架につけられる事を意味していた。また、人の子とは、十字架上の勝利者を意味していた。彼らはイエスを理解しようとしなかったのである。イエスが、教えておられるこの驚くべき逆説とは、どのようなことだろうか。さきに、この箇所のテーマは死と命ですと言いました。麦の譬えで、麦の実は、安全に保存されているだけでは役にたたず実も結ばない、実を結ぶのは、冷たい土の中に(墓に)投げ入れられ埋められるときです。死ぬ事なしに生きる事は無いのです。死ぬ事はイエスにとっても心騒ぐ事であった。まして、私達にはなおさらである。私は今最高の信仰生活をしているとは思っていません。いつも、これではだめだと思い自分を鞭打つような思いを持っています。色々な事情で信仰生活がおろそかになっている。しかし死ぬときには仕事中だからといって待ってはくれません。そして、死んでしまえば後のことは全然心配できません。ある意味では無責任に成る事だと思います。死ぬとは、責任は神が持ってくださると信じてゆだねていく事です。そして、自分の命を愛するとは、利己主義に動かされて、自分の出世と身の安全を求めて生きる事です。私達の教会も昨年創立50周年を祝いました。今の草薙教会が在るのも、多くの信仰の先輩達が自分の命だけを愛する事を捨てて、神に、人々に、賜物をささげ、神が豊かに用いて下さったっからです。ここでは、人間の持ちうる最も大切なもの、愛が守られ、生み出されているのです。ここでイエスは、命は死によってもたらされる。そして命は消耗し尽くす(使い尽くす)ことによって命が保持されるといった。キリストの逆説は真理であるとわかるのです
●ヨハネ9章に、生まれつき盲人の目を見えるようにして下った物語があります。彼は、律法学者達の前で恐れる事無くイエスを証しました。そして、会堂から追い出されました。するとイエスがちかづいて言われました。『あなたは人の子を信じるか』と言われた。彼は答えていった。『主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが。』イエスは言われた『あなたはもうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である。』私は聖書の事を調べるのが好きです。それは、イエス様のことをもっと知りたいからです。イエス様を知れば知るほど、驚きと喜びは大きくなります。私達が、こころからイエス様を知ろうと思うなら、イエス様は真実に答えてくださるのです。そして、生き生きとした信仰生活が出来ると信じます。(説教・文責:大石兄)

 

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