2004年
10月31日

≪先週の説教から≫
 
私たちが、イエス様はどんな人、どんなことを語られたのか、いろいろと自分の思うことを話すことがあります。キリストは一体どんな人なのか、世界の教会はこのことで、このキリストから何を聞くのかに、話題は終始しているといっても良いと思います。

 先週の祈祷会では、『ルカによる福音書』24章13節以降が開かれました。エマオ途上の出来事のところです。

 二人の弟子は、キリストであるイエスに従って主に希望を抱いていたので、エルサレムにおける十字架の出来事には、とてもショックを受けました。語り合い、そして論じ合っていると、という言葉に注意してみましょう。十字架の出来事について、どう思うか、一体何が起こったのか、どう理解したら良いのか、お互いに論じ合っていたようです。

 最も大切なことを論じ合う。とても大切なことです。また、私達はそのように造られているようです。論じるというのですから、意見が必ずしも一致していなかったのかもしれません。しかし、キリストについて論じる、実に素晴らしいことですし、今の教会も必要なことではないでしょうか。

 キリストの一体なんであるか。それが私たちにとって大切なことでなければ論じる意味もないことになるし、お互いの考えを理解し、自分の考えをまとめて意見にするということは素晴らしいことです。

 教会がこの議論をしなくなったとき、よけいな議論が巻き起こります。利権の追求やその他もろもろの教会とは関係のないことがらです。このような話の中には、イエス様もまた参加されることはありません。イエス様が参加してくださるのは、私たちがこの方について話すときなのです。弟子達はこのことを経験して、32節にあるように「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」と言う事が出来たのでしょう。

 イエス様に対して積極的なことはそれに留まりません。29節を見ましょう、“しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた”とあるように、そして、お招きした方が主人となってくださることを知るのではないでしょうか。“一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。”とある通りなのです。

 イエス様と教会、そして私たちの願いと計画について多いに、日が暮れるまで、話し合いたいものです。

 

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