2004年
10月24日

≪先週の説教から≫
 先週の主日夕礼拝では、『ペテロの第一の手紙』2章が開かれました。

 信仰が弱いだの強いだのという言葉に何か意味があるような気がする時の多いのが私たちです。“信仰の弱い者を受けいれなさい(ローマ14:1)”などの言葉を思い出すかもしれません。信仰を測りたくなりたくなるのが私たちかもしれませんが、“受け入れること”即ち区別やランクを付けてはならない事が言われています、仮にあったとしても神様がご存知のことで、人の尺度で測ってはいけない事だと教えているのが聖書です。

 Tペテロに於いても、始めの信仰を忘れてはいけないと書かれていることに注意を払いたいものです。2節には“今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい”と語っています。こう言われてしまうのがふさわしいまでに陥ってしまっていたということを意味しています。

 最初の福音をここでも、一番大切なもののたとえ“隅の頭石”を使って、使徒行伝や詩篇の預言と同じように語っています。現実の世界の中で最初の純粋な喜びを忘れていくことはよくあります。教会の日常にもこのことは当てはまります。教会は伝道だの教会の案内だのとばっかり言っているが、“そんなことしたって、人が来たり会員が増えたりするもんじゃないことは、我々がよく知っている”というような声が聞こえてくるような教会が、日本中にあるようです。何もしないことに慣れてしまうかもしれません。主の十字架を知り教会において救いを経験していながら、十字架を無価値なものと考え、滅びの道を選ぼうとしてはいけません。

 “十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である(Tコリ1:18)”ということを忘れているのですか、とペテロは強く訴えているのです。一番大切で一番の真実、主の出来事を、何故今捨てようとまでするのですか。常に新鮮で若々しくありなさい、と訴えます。あなた方はクリスチャンではないのですか。と訴えているのです。

 慣れというものは随分強いもので、上手く行かないことにも慣れてしまうものです。何があっても喜べないのは、悲しいことですが、喜びたいということを忘れてしまったとしたらもっと問題かもしれません。

 しかるに私達の主は、誉むべきかな。全ての可能性と約束を私達の教会にも、与えてくださっているのです。“あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて”と書かれています(1節)。あなた方はまさしく教会員だからだと言うのが根拠なのです。

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