2004年
10月17日

≪先週の説教から≫
 先週の主日夕礼拝では、イザヤ書が開かれました。箇所は6章1〜8節でした。新共同訳聖書の区切りで言いますと「イザヤの召命」とされているところです。イザヤ書には召命の箇所がほかにも、例えば61章のように、記され、記録されていますが、一番よく知られているイザヤの召命のところです。

 イザヤが預言者として活躍した時期は、1説にあるように、ウジヤ王の死んだ年に始まります(1節)。限りなく聖であり、限りない愛を持っておられる神が、イザヤを召されたのです。

 それに対してイザヤは「私を遣わしてください」と神への告白をするのですが、このときの様子を思い浮かべてみると実に幻想的というか、不思議なものでした。大切なことは、イザヤ自身このような経験をし、このような表現でこのことを記しているということです。

 @まず、何時の事かが書かれます。
 A次に主との出会いが記されます(1節)。
 Bここではセラフィムが担っていますが、主を紹介する人がいます(2〜4節)。
 C応答が続きます(5節)。
 D聖別が続きます(6〜7節)。
 E主の御旨の開示、と勧め・・・。
と、こんなふうに描かれていることが分かります。

 この主との出会いの記録は、実は「パウロの回心」と言われている、ダマスコ途上の出来事にも同じように、その人の経験を踏まえ、最も適切な形で与えられていることが分かると思います。

 そして、ポイントですが、実は私たちもそれぞれ、文章にするとなかなか表現しにくい時もあると思いますが、同じ経験をしているのだということです。聖書をこんなふうに読んでみるのも素晴らしい時があるのではないかと思います。「私が主に出会った時は、どんなだったか」、一人一人が素晴らしい、そしてもう後戻りできない経験をしているのではないでしょうか。

 もう一つのポイントがあると思います。それはイザヤと同じ経験をする、それぞれの「時」があるのではないかということです。イザヤ書6章は召命の箇所。少し聖書に親しんだ経験のある人なら知っていることです。知っていなくても読めば分かります。ところが、今までは読み飛ばしていた場所が、その時には、自分自身に対する主の言葉として、実に、いつもとは全く違った新しい経験として、目の前に展開されるということです。

 今も求めるものに、臨在してくださる、主に感謝したいと思います。

トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置