2004年
10月3日

≪先週の説教から≫
  夕礼拝で開かれた聖書の箇所は『ヨハネの黙示録』21:1〜4でした。次聖日の礼拝でも開きます。天国を忘れないように、ということです。

 この箇所は、聖書が告げる天国の有様を描き、また私達に示しているところです。イエス様を信じ、救われた私達は、その状況が未だ定かではないにしろ、やがて天国に永遠の命を与えられて住むと信じているでしょう。永遠の時間を過ごすこの天国、この世に比べればはるかに大切なところのはずなのに、現実の世界に圧倒されて、同じくこれも現実であるのに忘れている時もあるのではないでしょうか。

 私達は今や科学技術の世界に生きています。解決しなければならない問題が山積しています。それらに解決の展望を与えるのが科学です。治らない病気と言われた病も、かなり医療によって征服されてきました。このように、解決しなければ不幸になるようなもの、逆に言えば、解決する能力を手にしたものが勝利する社会。これが科学における未来観なのではないでしょうか。
 
 聖書は違います。アダムとエヴァが罪を犯すことによって、善と悪を知る世界に踏み込んだように、今度は私達も未体験の世界の到来を迎えるのです。しかし、過去の神様の救いを忘れているのではありません。4節に“人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである”とあります。イエス様の救いはこの天の国にまで連なっているのです。

 私たちがこの世界に実の多くの寂しさがあることを悲しむように、主のもとで、如何に絶大な救いがそこにあるかを知ると思います。遠い世界のように思えるときがあると思います。しかし、私達の手にしたこの救いがこの天国にまでつながっているという事こそ、なんと私たちに安らぎを与えてくれるか、今もう一度知りたいと思います。

 信じるものに頼るのが私たちです。病気になった時、私達は病院に行って進んだ医療に頼ります。民間療法を信じる人は、それなりに私達には迷信と思えるような療法にすがり、信ずる時もあります。私達は確かに誰でも、その人の信じるものに頼って行動します。それならば至上の神と共にある天国に頼る事の出来る私達は、実に幸せです。今日も聖餐を守りますが、私たちは、神の栄光が、私たちと共にあるように祈ります。

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