2004年
9月26日

≪先週の説教から(教会学校)≫
教会学校で開かれた聖書箇所を見ましょう。あれこれ考えている時に、教会学校の先生が生徒たちに語っている聖句そのものに、明確な解答を得たような平安を感じるときがあります。何ものも付け加えられていないからかもしれません。
 先週の教会学校の聖書箇所は、ヨハネによる福音書12:1〜8でした。主イエスのベタニヤ伝道に関する記録のところです。この箇所で、ユダヤ人たちの信仰が、始めは神様に選ばれた民として、御声に聞き従う素晴らしい面もあったのに、イエス様の時代になると、どんなにか、かたちばかりのものになってしまったか詳しく描かれています。
 今日は聖書の中から5節に注目してみましょう。“なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。(新改訳)”とあります。ヨハネの福音書では、この言葉が強調され、やがてイエスを裏切ることになる、イスカリオテ・ユダが言ったことになっています。すぐに分かることですが、このユダは、実際にそう思っていたわけではないのです。二枚舌を使うとか、たてまえと本音を使い分けるという言葉がありますが、聖書はこのような姿勢の、如何に罪の多いことかも記録しているのです。“人間だから、聖書のように出来るわけじゃない”と言ってしまい、肝心のことを問題にしないのが人間だということも語っているのです。

 “悪から離れ,公義にたて”という言葉はいやというほど知っています。しかし、その間にイエス様の贖いがあることを忘れてはいけないのです。罪のあるまま、そのままの姿で、イエス様の前で、あたかも罪なき者とされるのが救いなのです。三百デナリ(約300万円ほどでしょうか?)は、たしかに蓄えられなければここにはありませんでした。そして、私たちもよく知っているように、蓄えられはしたものの、使い道のないお金も、人々に不幸をもたらします。

 マリヤはどんなふうに考えていたのでしょうか。また皆で考えたいと思いますが、使うことが出来たのです。イエス様はこのことを高く評価されました。そして、貧しい人たちはいつだっている、即ち“いつだっているのにあなたたちはその人たちをそのままにしておく”と言うことなのですが、私たちも、いま“出来ることがある”という信仰に支えられたいものです。このことは世界中に宣べ伝えられる、と聖書は言っています。

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