2004年
9月19日

≪先週の説教から(夕礼拝)≫
★昔、ジョン・バニヤンという人が説教をしましたが、“一教会員にすぎない”という理由で投獄されました。その時代によって違ってきていますが、誰が説教をするかという問題があります。私達の教会のように、会員皆が、神の言葉である聖書について説教することは今や当たり前のようになり、殆どのプロテスタント教会では良いことと理解されています。

 また、地域と時代によって、女性の説教が、禁止されていたことさえあります。このことについても私達の教会は、同じ理解に立つことが出来ていると思います。

 それではこの説教とは一体何なのでしょう。沢山の説教者の説教を聴いてみて、良かったの、あまりぴんと来なかったの、というのは何を指してそういっているのでしょうか。正しい態度なのでしょうか。
 “また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。(Uテモテ3:15〜16)”には、一つの説教の本質が語られているようです。

 まず説教は、説教者自信の理念や、神学を教えることではありません。それでは何と答えるべきでしょうか。説教者自身を含む人々がその時代にあって何を必要としているかを語る。というのが答えかもしれません。そして誰が語るか、ということについては、やはり、神の召されたしもべを通して、という言葉が必要になってきます。要するに教会員を通してということですが、これらの人々を霊感し、これらの人々を通して語らせた神ご自身の、キリストにある救いに関する事実が説教である、と言えるでしょう。

 最初の頃の説教について、以前『使徒行伝』を学んだときに、ペテロの説教を見てみましたが、もう一度振り返ってみるのも良いことだと思います。

 それでは、今日開かれた聖書の箇所『詩篇』から何が説教されるのでしょうか。まず聞くところから入ります。魂がどう聞くか、どう味わうか、ということです。充分に御言葉に聞くところから入ります。次は、理解を共にするということです。いま聞いたところで何が語られているかということです。次に、確信を決心するところに進みます。キリストによって、今救われている我々は、疑いようもないほどに確かなことであるという確信に導くこと、我らの教会は“聖なる公同の教会”であることへの確信です。そしてその確信は決心そのものなのです。

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