2004年
9月12日

≪先週の説教から(夕礼拝)≫
最近夕礼拝には新来会者が与えられています。

創世記2章18〜25節が開かれました。口語訳聖書などで“人”と訳されている言葉は、原文では“アダム”という言葉で、英文に訳された聖書には、そのままAdamになっているものもある“人が一人でいるのはよくない”で始まる、二つの性、男と女の創造の物語です。

その造り方なのですが、神様はまたとても不思議なことをされました。その次第はこうです。色々の動物に名前をつけました、それは人のしたことです。そして今いる、いろいろの動物たちはそのように呼ばれることになりました。すなわち人の知るところとなったのです(19節)。

しかし人は自らが自らを確認する方法を持っていませんでした。そこで神様は、この貧しい存在に素晴らしい女性という助け手を与えられたのです。与えられた女に、女という名前をつけたのは人でした(23節)。またそのように呼びました。人を深く眠らせ、眠っている間のそのあばら骨の一本を取り、後を肉でふさぎ、その取り上げたあばら骨で女を創造し、男のところにおかれたとあります。

人間には性別があります。そして何故そうなのか、その生まれてくる割合がどのようにして、少しだけ男のほうが多くなったのか。その結果、どのようなことが起きているかは割合に良く分かるのですが、何故性別が出来たかは、生物学では、今もって謎になっています。

いずれにしても、両性があるということは神様の思いの実現であり、素晴らしいことなのです。もし男ばっかりだったり、女ばっかりだったらどうでしょう。実につまらない、刺激のない、文学も芸術も生まれる余地などないような、実に味気ない世界だったと思われます。異性がいるというのは素晴らしいことなのです。

ところがこの素晴らしいことから、その罪のゆえに、といえるのですが、不幸も作り出しました。悲劇も作り出しましたし、もともと一体だった相手を、嫌うことさえ行うようになりました。

もっと申しますと、表面的な社会の抑圧による不利益、差別のために、独身主義に陥ったり、結婚が本質とは関係のないことによって邪魔されたり、神が合わされたものを離そうと思ったり、その他様々な神様の愛の業の否定につながる内容のことです。

この箇所からもう一度、異性はベターハーフ、よき半身であることを聖書が語っていることを思い出したいと思います。教会はその回復も使命として神様から与えられているのはないでしょうか。その力はキリストです。

トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置