2004年
8月29日

≪先週の学びから≫ 
 先週の夕礼拝では、旧約聖書『創世記』9章1〜17節が開かれました。記録されている内容は、ノアとその子らへの祝福と戒めです。戒めといっても、禁止事項というよりは、祝福に伴う神の思いとも言うべき理解のほうが正しいでしょう。このことを聖書は“契約”という言葉で示しています。

 9:17に“そして神はノアに言われた、「これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである」”とあります。
 まず契約についてみてみましょう。普通、例えばお金が動くとなると、請け負い、売買、賃金などお互いに対等の関係における取り決めの内容を想像します。しかし片方に圧倒的な力があるとき、そこに契約が成立するということは、聖書の記している通り、“命令”に近い内容になります。ノアとその子たちも、契約を神様から、恵みとして与えられたのであって、積極的に契約を結んではいません。聖書は旧約・新約と言われるように、神様が、どのような内容を私たちに与えてくださっているのかについての、証をする書物と言う訳です。

 創世記のこの箇所では、“虹の中に置く”という表現がされています。Tコリント11:25に“この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい。”とありますが同じことです。私達は、契約が行なわれることを望むことはあっても、対等に“約束”を結ぶことや、神様にこちらの願うことをしてもらうように“誓願”を立てるのと同じようには理解しません。旧・新約聖書の“約”は、神様の恵みのことを言っているのです。
 
 さて、ノアとその子らの話に戻りましょう。実に多くのことが書かれている中に、“動物たちを食べても良い”とあります(3節)。しかし、神様はノアに期待をされたことも書かれています。期待ですから、その通りに行うことの内容も伴います。命の源である、血のままで、血までも、貪欲に食べつくしてはいけないというのです。要するに、管理責任が与えられたわけです。

 しかし今日、管理責任を貪欲の為に罪に売り渡してしまった人々の姿を、環境破壊・自然破壊という形で端的に見ることが出来ます。命の源である血まで破壊した姿です。動物のことを言っているようですが、“兄弟である人間”についても神様は同じように大切にされます(6節)。人が人の命を取ること、まして自殺というかたちで、自分の命を破壊しようということは、神様が人々に繁栄を得させるための条件として、“してはならないこと”と、契約においてなさったのです。

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