≪先週の聖書から≫ 式文を聴くこと、してますか(3)。
8月は、私たちの教会の、聖餐式において繰り返し確認される、聖餐の式文について見てきました。
全員でパンと杯に与る時が来ました。このように続きます。
“(司式者は、パンを与える際、次のように言いなさい)あなたのために与えられた、われらの主イエス・キリストのからだが、あなたがたの魂と身体とを守って、永遠の生命に至らせて下さるように。キリストがあなたがたのために死なれたことを思い出すため、取ってこれを食べ、感謝し信仰をもってあなたがたの心を養いなさい。(司式者は、杯を与える際、次のように言いなさい)あなたがたのために流された、われらの主イエス・キリストの血が、あなたがたの魂と身体とを奪って、永遠の生命に至らせてくださるように。キリストがあなた(がた)のために、その血を流してくださったことを思い出すため、感謝してこれを飲みなさい。”
そして私達は、イエス様の肉とその血に与り、祝福の祈りをもって、それぞれの場所に派遣されてゆきます。
“神より出て、人のすべての思いにまさる平安が、あなたがたの心と思いとを守って、神とわれらの主イエス・キリストの愛を深く悟らせてくださるように。また、父と子と聖霊の神の祝福が、いつまでもあなた (がた) の上にあるように。アーメン。”
が、終祷として捧げられなければならないことが記されています。
さてこの聖餐式、誰でもその食卓に連なってよいものでしょうか。私たちの教会では、洗礼を受けたクリスチャンだけが、認められています。教会によっては、誰でも、初めてやってきた人にも、聖餐に連なることを認めているところもあるようです(このような仕方をオープンシップなどと言っているようです)が、私達はそのようにはしません。信仰をもっていない人に、この3週に渡って見て来た式文が何の意味をも持たないことははっきりしています。
また、「自信がない」とか「今の自分の霊的状態は、聖餐に与るには値しない」などとおっしゃる方に出会うこともあるのです。随分遠慮なさって、素晴らしいと言いたいところですがそうでもないのです。自信がないからこそ、先に悔い改めの祈りをし、赦しの宣言を受けました、そして今、聖餐に与ることが必要なのではないでしょうか。霊的に整っていないからこそ、聖なる福音のうちに命じられた、この式に参加し、新しい力を繰り返し得なければならないのではないでしょうか。Tコリント11:26を読みましょう。それ以来、教会の中心を占めているのです。
|