2004年
8月1日

≪先週の聖書から≫
 
先週夕礼拝の聖書箇所を見ましょう。
『創世記』からですが、
9:1 生めよ、ふえよ、地に満ちよ。9:2 地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、9:3 すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。9:4 しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。
 という、とても有名なところでした。
 この前は、食物のマナについて見ましたので、今回は食物としての、獣について見てみましょう。制度として、ここで初めて神は、洪水を生き延びたノアとその家族に、獣を食物にすることを、契約で定めておられるのです。しかしそこには、大きな条件がありました。生き物の命である、或いは命が宿ると言ったほうが良いでしょうか、血を流してはならないというのです。一言で言えば、これらの生き物を守らなければならないという事でしょう。

 今の私達は神様のこのような契約を守っているでしょうか。自然破壊という言葉が用いられるようになってかなりの時間が経ちますし、絶滅危惧種と名付けられた動物が沢山あります。それどころか、人間自体にも、危険は及んでいます。神の祝福の契約に立ち返らず、自然保護などという言葉が虚しく響いているだけです。

 また日本では出生率の低下が問題になっています。個々の人の責任ではなく、社会の歪によって、子供が産めないような状況を、一つの罪として作り上げてしまったのではないでしょうか。御言葉に“生めよ、ふえよ、地に満ちよ”とあるのは、一般的な人類を差しているのではありません。何か状況というようなものでもないのです。具体的な一人一人を意味しているのです。“豊かな人生を送るように私はあなたを祝福する”と神様は契約において仰っているのです。ですから嘆きや孤独や、その一切のこれに類するようなことは、神様の意志ではないのです。祝福され、ご自身の民だと仰った人々の苦しみを良しとはされず、その代わりに救いと“愛と希望と信仰”を知らせてくださったのはないでしょうか。ここに私たちの救いがあるのです。教会もこのことを語るべきではないでしょうか。
 どうか私たちが、他の命を奪って生きる事がない様に、と御言葉から学びたいものです。なぜなら神様は、私たちを、そして私を、祝福をもって、この世の中に送り出していらっしゃるからです。

トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置