2004年
7月25日

≪先週の聖書から≫
 ★ 先週の月曜日、日立大久保教会で、中江先生をリポーターとして、先の教会総会で私たちも考えた内容について、更に深く学びました。それが最良かどうかやってみなければ分かりませんが、草薙教会でも、教会政治について考え、成人部会のあり方について、考えたところでしたし、良い内容だったと思います。
 先週の主日夕礼拝では、マナについて考えました。出エジプトを成し遂げたイスラエルの人々は、モーセと共に、シナイの荒野をさまよい、何一つ食べる物のないようなところを通ってきましたが、しかし神様は、マナという不思議な食べ物を天から降らせて人々が充分に生きながらえることが出来るようにしてくださいました。麦畑もない時代のことでした。

 聖書で開かれた場所は『ヨシュア記』5章10〜12節でした。人々がカナンの地に入り、耕作を始め麦を口にしたときに、マナは降らなくなったといいます。この決して美味しいものではなかったものの、理想的な食物であるマナについてまず考えて見ましょう。

 第一にマナは天から与えられました。
 第二に人々は、それを毎朝集めなければならないという、積極的な姿勢を求められました。
 更にマナの素晴らしいところは、第三に、充分な量だけあったということと、
 第四に、次に日まではもたなかった、すなわち蓄えることが出来なかった、というところにあります。

 この蓄える事が出来なかったということですが、社会科学的な考えを巡らせても、実に素晴らしいものであったことを示しています。蓄積できないのですから、貧富の差が出来る背景もないことになります。しかし今、人々が手にし、収穫を口にした麦畑というものは、まず決められた土地の占有を前提にしなければ意味がありません。
 また第二に、収穫を多く、蔵に蓄える者と、蓄えることの出来ないものとの、貧富の差の時代を迎えることを意味しています。確かに麦は、人々の暮らしを裕福にしましたが、正しく管理しなければならないという、人の責任が更に問われたということをも意味しているのではないでしょうか。

 今も化石資源の浪費、原子力の管理、地球環境そのものに手を出そうとしている時代にあって、いよいよますます新しい技術に出会わなければならない時代を生きていることは明らかです。今や被造物全体が尊重され事が必要です。

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