2004年
7月18日

≪先週の聖書から≫
 先週に続いて、旧約聖書、律法の書『レビ記』を開きましょう。
 23章の22〜25節が夕礼拝で読まれました。先週も言いましたとおり、レビ記といえば、「・・しなければならない」とか「・・してはならない」などと、事細かに定められた、“祭儀律法”のような感じがします。これらの律法、確かにそうであり、その形骸化こそ、新約聖書で描かれている、パリサイ人とか律法学者と記されている人々の姿なのです。しかし聖書は、救いの書、ご自身の民の救いの書であることも事実なのです。

 22節に、“またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である”、とあるのに気付くでしょうか。
 モーゼの時代に麦畑があったかどうかについては、また見てみることにしますが、聖句の中身は次のことです。
 貧しい者や、寄留者(旅人)に対する優しさ、相互扶助のあり方を、実に力強く教えてくれています。しかもその根拠は、「わたしはあなたがたの神、主である」ことによるのだというのです。旧約聖書を読み進めますと、今の私たちが忘れている、神様の前でのあり方を、このように教えられるところの実に多いことに気付きます。

 22節の御言葉に対して今の私達は「最も合理的に完璧に収穫し尽さなければならない。これが勝利者の姿である」と思い込んでしまっているときがあるのではないでしょうか。“その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない”とありますが、今の時代、このことが出来なくて苦しんでいるのが私たちかもしれません。

 十戒を始め全ての旧約聖書がご自身の民のための書であるならば、恵みの御言葉なのではないでしょうか。ロマ書7:21には“善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る”とあります。私達は、良いことを知っているし、また、そうすべきだということも知っているのです。しかし、それは不利益につながり敗北者になる、と思い込み、時には利益の為の犯罪を犯すのです。

 聖書は続いて、“大安息日!”に、7月に第1日は特に大切にしなければならないことに触れていますが、安息日も蔑ろにさせられている自分に気付くときがあってもいいのではないでしょうか。自由にしても良いが守られることのない人々、フリーター族のあてのなさを、生み出し加速させてきたのが、近代・現代の、聖書の教えを忘れた姿なのです。決して神様は天の遠くの、栄光と裁きの中におられる方ではないのです。

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