2004年
7月11日

≪先週の聖書から≫
 先週の夕礼拝では、旧約聖書『レビ記』19章1〜6節が開かれました。

 『レビ記』といえば律法の書、しなければならないとか、してはならないことの羅列のように見えます。実際に読んでみてもそうなのですが、形骸化した規則ではなくて、イスラエルに与えられた、神の優しさの書としても、読むことが出来ます。ガラテヤ3:21には“では、律法は神の約束と相いれないものか。”と書かれています。十戒を始めとする律法は決して無意味なものではありません。

 『レビ記』19:2〜3には“イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。あなたがたは、おのおのその母とその父とをおそれなければならない。またわたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。”とあります、神が聖であることの、一番の証のひとつが、あなたの父と母との関係に見出されるというのです。実に身近な神であることも分かります。

 5節も見てみましょう、“酬恩祭(しゅうおんさい)の犠牲を主にささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。”とあります。この酬恩祭の犠牲(和解のささげもの)ですが、ささげた物ではなくそのようなことをした人が神に受け入れなければならないと言っているのです。意味深いことです。表面的なかたちで何かの和解が成されても実に虚しいことを現代の私たちも、よく知っていると思います。

 さらに、聖書はそのささげものの処理についても詳しく述べています。その翌日に食べ、三日目まで残ったものは、それを火で焼かなければならない。と、6節に書かれています。実にもっともなことです。“科学信仰”とも言うべき習慣の中で、“賞味期限”を気にしながら買い物をするのと変わりません。私たちには腐敗のメカニズムは分かっていますが、食物が腐るということにまで、今ほどには科学的知識のなかった時代に、それぞれの項目は、優しく教えているようです。

 旧約聖書に見る神様は、聖にして、栄光の神でしたが、今やキリストにある私達は、愛にして救いの神様とともにあるのです。全ての旧約律法に勝って素晴らしいのが、主イエスの“愛の律法”であることを知っている私たちには、これらの律法の素晴らしさもまた、分かるのです。

《週報の4ページでは、夕礼拝や祈祷会で開かれた箇所を出来るだけ多く取り上げ、分かち合いたいと思います。》

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