2004年
7月4日

≪先週の聖書から≫
 先週水曜日の聖書研究会のテキストは、詩篇31編でした。
 私たちの日常生活の中で、聖書に書いてあることと、実際の体験とは随分違うことが良くあります。その食い違いについて、悩みを覚える人もいますし、聖書は聖書、実際の生活とは違う世界のものと、割り切ってしまう人もいます。聖書に書いてある通りには、物事が進められないことに悩む人もいますし、礼拝の時間だけ、心の平安の為に聖書の世界に心を向けるという人もいます。どうもこのどちらもが、正しく聖書を理解しているとはいえないようです。

 聖書は現実から出発し、主の救いの世界にまで私たちを、引き上げてくれる書物であるはずのものではないでしょうか。31篇はこの両方をちゃんと踏まえている詩のひとつです。

 9〜13節を見てみましょう。“わたしは死んだ者のように人の心に忘れられ、破れた器のようになりました。まことに、わたしは多くの人のささやくのを聞きます、「至る所に恐るべきことがある」と。彼らはわたしに逆らってともに計り、わたしのいのちを取ろうと、たくらむのです(12〜13)。”とありますが、実に現実的な、誰もが経験しそうな、“嘆き”です、理由もはっきりしないような実に多くの嘆きの中で生きている私達自身の姿を描いています。しかしこの嘆きの箇所が、神への信頼の告白で挟まれているのが分かります。

 5〜8、14〜15節が、信頼を表しています。更にこの詩篇は、その外側を祈りで挟み込んでいることが分かります。

 1〜4、16〜18の各節が祈りです。そしてこのような嘆きを経験した信仰者によってなされる、呼びかけ、或いは奨励が19節以降、24節まで続きます。“主はほむべきかな、包囲された町のようにわたしが囲まれたとき、主は驚くばかりに、いつくしみをわたしに示された。”と21節にありますが、これはまさしく経験者による勧めであることが分かります。クリスチャンは、感謝ということをよく口にしますが、もともと感謝とは、経験したことに対するお礼を意味している言葉です。

 今やこの詩篇に織り込まれている“報復”の理解は、新約聖書には一箇所も出てこないことにも気がつきます。これらのことは、イエス・キリストによって、完全に私たちの信仰の外に、よけいな恐れや不安と共に、捨て去られているのです。“すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ。”と最後の24節にあります。
 さっきまで嘆きの只中にいた、この詩を詠んだ唇から、流れ出る讃美の言葉なのです。

 

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