2004年
6月20日

≪先週の聖書から≫
 先週の礼拝では『ヨハネによる福音書』3:1〜15が開かれました。ここではニコデモが登場しています。ユダヤ教の宗教的指導者であるこのニコデモ、“一体どんな人だったのか”からみたいと思います。

 イエス様は、福音の成就のことをおっしゃっているのですが、ニコデモには分かりません。“ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。”と4節にあるのは、実にこっけいに思えます。
 しかしこれはこっけいと言う言葉で終わるものではないのです。求道者であるニコデモにとっては、真剣な問いだったのではないでしょうか。
 “この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。”とありますように、彼はイエス様に期待をし、また信じていたのです。

 夜にやってきたとはどんなことでしょうか。聖書はそこまで理由を説明してはいませんが、“人目を忍んで”やってきたのでしょうか。あるいは、正義が衰え、罪のはびこる、暗い世にあって、その中で主のもとにやってきたとも読めます。いずれにしても彼は、求道者だったのです。

 私たちも、求めるときには、聞きたいと思います。知らないで信ずることがあったとしたら最悪の信仰かもしれません。不思議に思われるような、或いは変に思われるような質問でも、本当に求めようとすることに対しては、私達はするようにできているのです。そして答えてくださるのは神様です。多いに考え、求め、私たちの信じているキリストが、どんな方かを知り続けたいものです。好きな人のことなら何でも知りたいのと同じです。その後の初代教会の歴史が示しているように、多くの祭司を含むユダヤ人がクリスチャンになりましたが、このニコデモも、クリスチャンになったことでしょう。

 さて、水と霊による新生とは何でしょう。罪からの解放、罪から清め、霊的領域ともいうべき世界のことと理解しても間違いではないと思います。御霊による世界はあるのです。その世界がベールをとるとき、イエス様の目的が私たちにも明らかになるのです。
 “すべて永遠の命を得るためである。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”と聖書は教えているのです。

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