≪先週の聖書から≫
『エレミヤ書』21章が開かれました。私達は主に求めるとき、黙祷という言葉をよくつかいます。黙って神の前に祈り御心を求めることでしょう。“事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。”と言うのは、ピリピ4:6に記されている勧めです。
しかしこの“求めるところ”ですが、よく考えないと、日頃私たちが口にしている、“自分勝手なことは求めません”ということと混乱してしまいます。何をまず一番大切なこととして申し上げるかによって、随分違った祈りになってしまいます。願い求めるのが人生だとすれば、人生を変えるかもしれません。
黙祷に似た言葉に“黙想”と言う言葉があります。この黙想ということも実に度々私達はします。思い巡らせることでしょう。
更に、実に多くの不満も口にするのがこの黙想です。“上手く行かないのはあのせいだ”とか“妨げになっているのはこのことだ”とよく思い、より饒舌になります。物事に恵まれるときよりも、失敗したとき、不満がいっぱいになったときのほうが、あれやこれやと黙想するのが私たちかもしれません。
さてこの『エレミヤ書』で、神に祈るということがどのように描き出されているのか見てみましょう。エレミヤは預言者でした。とは言っても社会に生きていないわけではありません。ゼデキヤ王は権力者でした。権力者の期待にそった預言らしきことを行なった、言わば“お抱えの預言者”がいたかもしれません。
王は、政治的にも軍事的にも勝利することを期待し、預言者エレミヤに、神の言葉を求めました。世界史で、これは後になって見れば当たり前の事実なのですが、最後の王様になります。8節にありますが、神様の言葉は次ぎのようなものでした、命の道と死の道があるというものです。御心を求め、とりなしを求めた、これよりさかのぼること百年のエルサレムとは異なります。アッシリアの勢力から奇跡的に救われたエルサレムの姿を、もう一度夢見ながら、この危機的状況からの解放を預言者エレミヤに期待しましたが、御心がただ恵みのみであることを疑わなかった預言者には通用しなかったという訳です。神の民のとるべき道は、ただ正しいことを行なうことだというのです。
クリスチャンも、恵みである御心から離れない様にしなければなりません。21:12の“朝ごとに、正しいさばきを行い、物を奪われた人をしえたげる者の手から救え。わたしの怒りは火のように燃えて、それを消すことはできない。”がご自身の民への言葉だったのです。
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