≪先週の聖書から≫
今週から聖霊降臨節に入りました。
『使徒行伝』2章に描かれており、またイエス様によって予告されている出来事が起こったのです。教会はこの日にその働きを始め、この出来事によって、教会はまた神を信じる人々にこの上もなく確かなものとなったのです。教会の誕生日でしょう。
礼拝では、このことはやがて成るとおっしゃった、イエス様の言葉が開かれました。『ヨハネによる福音書』14:15〜27です。“助け主が送られ、いつまでも一緒におらせて下さるであろう(16)”、これこそ私たちが知っている聖霊なのです。
ところがこの聖霊、色々な方に聞いてみると、受け取り方が随分違うことに気がつくときがあります。キリスト教は三位一体の神を信じています、或いは、お一人の方が、父として、子として、聖霊として、私たちと関わりを持ってくださることは誰も知っています。その中でも聖霊は、私たちの肉体を住まいとしてくださる、Tコリ6:19に“自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。”とあるとおりです。これほど喜ぶべきことはないのではないでしょうか。これによって私たちの一番近くにいるのが、神であることを知り、また神の知恵を知るのではないでしょうか。私たちもこの知恵に耳を傾け、何が大切であるかを知るべきです。
しかし、嫌なこと、腹の立つこと、理由もなく不愉快なことにばかり漠然と心を巡らせるときもあります。その理由の整理に心を使い、あれが良くないこれが悪いと、思いがちなのも私達。それぞれにとって何が願いなのか大切なことなのかを考えてみたいものです。
次に、“世は知らない”という言葉が出てきます。見ずに済ませることも出来る、いうのも現実です。22節の言葉がそうです。救いの道を知恵として見ない人々、或いは見ようとしない人々がいると言うのです。その知恵を直接に与えてくださるのが聖霊なのです。使徒信条の第三の項目で私たちがいつも確認しているとおりです。
聖霊降臨節は長く続きます。その間私達は聖霊なる神と共に、信仰の時を過ごすのだと思います。聖霊は誰にでも分かるように知恵を与えてくださいます。“私は今聖霊に満たされたのだ”などと言って、“他の人より知恵があるようにふるまいなさい”などとは、誰にも、聖霊は接していないのです。
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