2004年
5月30日

≪先週の聖書から≫信徒礼拝  説教:村上真理子姉
 先週の礼拝では、ローマ人への手紙1:16〜25が開かれました。特に「信仰による義人は生きる」(17節)は有名な聖句です。宗教改革では、この御言葉の理解の違いが、最も重大な問題の1つでした。
 ローマカトリックは、義人は一人もいないのだから、クリスチャンであっても天国に行くためには善行を積む必要があると主張し、プロテスタントの基を築いたルターは「人は、ただ信仰によってのみ、神の前に義とされる」と主張したことはご存知のとおりです。

 さて、18節以降3章20節までは「不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信仰と不義に対して・・・」と、厳しい言葉が続きますが、実は17節と18節の間は他の聖書では「というのは」という訳で続いています。17節までのことの理由が18節以降に書かれているのです。
 そして3章21節以降に、「それでは、私達はそんなに、何か優ったところのある者なのか?」とまた、私達自身への問いかけになります。

 クリスチャンとは、自分の行いによっては誰一人神様の前に義とはされ得ないのですが、キリストの十字架の贖いによって、そしてそれを信じることによって「義」とされた者です。今はまだ肉体においては私達は死ぬ者で、その意味では、罪赦された罪人ですが、やがての時に、神様の前にキリストの血潮の故に「義」とされることを約束された者なのです。

 それでは、何によってこの確信を持ち続けることが出来ますか。それは私達の内に「信仰」があるかどうか、なのです。信仰の有無が、私達が確かに義人とされているかどうかの証拠なのです。
 
 では、私達の内に信仰があるかどうかは何によって確信するのでしょう。それがまさに「洗礼を受けた」という事実、礼拝に出る、礼拝に来て御言葉を聞き、聖餐に与り、救いの約束を体で感じる、このことによる以外にないのではないでしょうか。何故かといえば、私達は「主を告白すること」も、「礼拝に来て聖餐に与り、御言葉に耳を傾けること」も、全て聖霊様のお働き、聖霊様を通しての神様からの恵みによらなければ不可能なことだ、と知っているからです。

 「恵まれる」ということ、それは「確かにあの時、私は洗礼をうけた」という事実があること、そして「確かに私は礼拝に集っている」(体調の都合で来られないとしても、礼拝を覚えている)、そういうことが原点となっているのではないでしょうか。

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