2004年
5月23日

≪先週の聖書から≫
 先週の夕礼拝、祈祷会では『ヨブ記』2章が開かれました。

 2章ではまず、サタンと神様の会話が描かれます。確かにヨブは財産をなくすことでは神から離れようとはしませんでした。

 サタンの言分はこうです、『それじゃ肉体の苦しみにおいてはどうだろう、きっと神から離れるに違いない』。そして実際そのようになるのですが、ヨブは神様から離れることもしませんでした。天国に望みを託すのでもなく、現実の世界で、苦しみと向き合う道を選んだのです。

 私達『ヨブ記』を読むものにとっては、その理由が分かっていますが、ヨブ本人には、苦難の原因も明かされていないのです。


 試練は更に続きます。「そのような苦難に合ってもまだ神様を崇めているのか。いっそ、神を呪って死になさい」と、一番身近な彼の妻にそう言われるのです(9節)。

 私たちも、そこに恵みがあるから教会に来るのです。しかし、「教会に行っても何の役にも立たない、それどころか、行く度に不幸が重なるではないか」と言われたら、また、そんなようなことが起こったらどうでしょう。教会から離れてしまうかもしれません。ヨブの物語は、試練や苦難、不幸など、望まない一切のことについて、私達に、「あなたはどうですか」、と問いかけているように見えます。


 次に、ヨブの三人の友人が登場します、ヨブには訪ねてくれる友人が、幸いなことに、いたのです。この友人たちは、それがヨブだと分からないほどになったヨブの姿に接し、悲しみを共にします。その悲しみようは、まるで、自分自身のことであるかのように大変なものでした(12節)。

 私たちも、悲しみの中にいる、或いは難題に直面している兄弟姉妹のことは知っていますが、これほどまでに悲しみを共にするでしょうか。祈りを共にするのでもありません。ただ、悲しみを共にすることと、七日の間の時間を共にする道を選んだのです(13節)。

 その理由は、彼の悩みがあまりに大きかったからでした。私たちも、思いを共にする、或いは慰めると言うことを知っていて、そのようにしようとします。それは正しいことです。決して、方法やカンセリング技術などによるのではない、ということを語っているようです。

 人を慰め励まし、教えようとするときには、そのような技術を売り物にしている人がいますが、一切不要なのではないでしょうか。そのようなノウハウは、ついて与えられます。私達は、親であり、妻であり夫であり、少なくとも人の子であり、愛を知っているのです。1、2章をもう一度読んでみましょう。

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