≪先週の聖書から≫
先週の礼拝では『ヨハネによる福音書』15:18〜27が開かれました。説教の主題は、“聖霊”です。
そんなことがなければ別に問題はないのですが、神様はよく分かる、救い主イエス様もよく分かる。と言うその方が、聖霊となると、なかなか曖昧なもので、風の様な捉えどころがない、そんなふうに捉えているなどと言うことが多いものです。
私達は、父と子と聖霊の名によって洗礼を受け、毎主日の礼拝においては、“イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、永遠にあるように”と、祝福の祈りとともに、それぞれのところに、派遣されていくわけですが、いざ、聖霊となると、オマケのように捉らえているみたいです。
ペンテコステを前にして、創造のときから、そして預言者に臨み、イエス・キリストに鳩のような姿で臨み、ペンテコステに我らの、大先輩に下った、聖霊こそ、そして、我らを宮としてくださっている、聖霊の、実に、なんと私達一人一人の近くにいてくださることかを、みてみるのも良いのではないでしょうか(自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって・・・、Tコリント6:19)。私たちの神様は、父なる、子なる、そして聖霊なる神様なのですから。
さて聖書の箇所ですが、“15:26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。”と言う聖句が結論のひとつです。ここに聖霊の確かさがあります。退廃と、罪の中で、うめいているこの世の中で、生きていかなければならない弟子達には、なんと力強い言葉だったとこでしょう。
この箇所で“一番身近な助け”として、これから出会うであろう、福音宣教の中における、苦労に打ち勝つために、告別の説教において、イエス様は“祈りにおいてこの方に頼みなさい”と力付けていらっしゃるのです。
“生まれつきの人間”とありますが、これは被造物であることの限界を忘れ、自らの力を強めることに神を見出している姿を意味します。ですから、破滅と救いという言葉を知った以上、“あなた方はこの世のものではない”という言葉が、断定の言葉として成立しているのではないでしょうか。
弟子達の証が弱められることのない様に、神は聖霊をもって助け、また必要なときに私たちも助けてくださっているのです。16章1〜15もこれに続きます。
私たちの喜びの為に、この箇所とともに読みましょう。
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