≪先週の聖書から≫
先週の礼拝では、『ヨハネによる福音書』21章15〜25節が開かれました。この福音書の目的は前の章の最後に書かれているとおりです。“これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである(20:30-31)、”と書いてあるとおりです。
21章は、追伸とも言うべきところですが、大切なことが書かれています。弟子たちは漁をしていました(21:3)が、これは決して、イエス様が十字架に付けられてしまったので、全ては元のもくあみに帰ってしまった、ということを示しているのではありません。既にイエス様は“聖霊を受けよ”とおっしゃって、弟子たちを派遣しておられるのです(20:22)。弟子たちはたまたま漁をしているときにこの美しく描かれている出来事があったのです。
もう一度この漁の、なんと美しい光景として描き出されているか読み返してみたいと思います。さて、ペテロはイエス様に従っていく決心をしていましたし、信じてもいました。しかし福音書に書いてあるペテロには、負い目がありました。それは有名ですが、主が捕らえられたとき、三度もイエスを知らないと言い、“私を同じに扱わないでくれ”と言ったことです。
しかし主は、この箇所において、ペテロのことを弟子としてふさわしいものとして、派遣しておいでになるのです。“私の羊を養いなさい”と三度も、三度の弱さを打ち消すかのように、おっしゃっているのです。
次にもう一人の弟子が出てきます。聖書では“イエスの愛しておられた弟子”とされている、他ならぬヨハネのことです。私たちも、人のことは気になるもの、しかしイエス様は“他の人とは異なる、あなたでなければ出来ないこと”に、あなたを任命し派遣すると言っておいでになります。
今の教会も同じです。教会学校に素晴らしい働きをすることができる方もあります。素晴らしい教会堂建築の技を持っている人もいます。私達は、その能力において、遣わされる所をもっているのです。大切なことはひとつ、イエス様につながっているという事なのではないでしょうか。
“私があなたを愛していることはあなたがご存知です”と何度でも“私はあなたを愛しています”とこたえるのではなく、ペテロのように、“あなたがご存知です”とこたえたいものです。決して、“他の人が愛するよりより愛しています”等と、比べる事も出来ない、無意味な答えない様にししたいものです。
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