2004年
5月2日

≪雅歌から≫
 エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。
 これは、雅歌3:5です。先週の聖書研究祈祷会ではこの箇所が開かれました。
 昔の聖書とは順番は違いますが、今私たちの手にしている聖書では、聖書の真ん中、預言書の前で、律法の書・歴史の書の後です。真ん中に近いところです。じっくりと雅歌を読んでみるのも、味わってみるのも、すなわちそれを読んで私たちがどんな感じを受けるか、考えて見るのも素晴らしいことではないでしょうか。

 まず“愛には時がある”といっているように感じます。この時という言葉、聖書では実に大切な色々の意味に用いられていることは、知られているとおりです。伝道の書3:1〜2などはとても有名です。神様の時があるというのです。そして、神様から与えられた愛は何物にも邪魔されてはならないと言っているようです。

 愛というのはひとつの自発的な、その愛を感じている人を揺り動かさざるを得ない力なのかもしれません。愛はもし阻害されたなら自ら働き出します。恋愛小説の主題は、“その愛がどんな邪魔者に打ち勝ったか”ということにあるかのように思えるのもそのためかもしれません。

 現在愛は阻害されています。結婚したくても出来ない、子供が欲しくても出来ない。いろんな事があるでしょう。しかも、それらの内には人の罪によって、引き起こされている阻害状況もあるかもしれません。経済的な問題。医学的な偏見。貧富の差などと言うこともあると思います。聖書は、“愛は阻害されてはならない”と言っているのです。また神様から与えられた愛に反して、無理やりに、“こうでなければならない”などと拘束される筋合いのものでもないと言っているのですし、また時があると言うのです。

 何度か取り上げた話ですが、『赤と黒』(スタンダール)というとても有名な、しかもいろいろの読まれ方をしてきた小説があります。金持ちの教会と、貧しい人々の教会が、最も大切な、二人の恋愛の前に立ちはだかるという物語です。草薙教会だけでなく日本中の、私たちの教会にもそんなことがないでしょうか。政略結婚とまでは言わないまでも、人と人との愛に、それに無理やり、足かせを掛けたり、打ち壊すことは、聖書的ではありません。主にある兄弟姉妹と言っている私たちらしくもないのです。愛の世界を作るのが、教会の使命なのではないでしょうか。

 

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