2004年
4月18日

≪イースターの朝≫
 イースターの出来事は主イエスの復活です。ところが、この復活について、私たちも洗礼を受けて復活への生涯を歩みだすまでは、なかなか信じにくい物語です。この出来事に関して、マリヤも「誰かが主の体を持ち去った」と理解してしまったくらいです(ヨハネ20:15)。ところがこの不思議な出来事、復活に、すなわちその確認と確信に、私たちの信仰の非常に大きな部分が支えられているのではないでしょうか。

 蘇生という言葉があります、各地で言い伝えられている物語を聞いても、息を吹き返した話はたまにあります。その経験者も居るようです。聖書の復活は、息を吹き返すこととは基本的に違っているのです。

 先の聖書の箇所でも、その人がマリアに現れたとき、すぐにマリアが確認できなかったように、元の肉体に、命が甦ると言う意味ではなく、栄光の姿に変えられているのではないでしょうか。

 最初に書きました、息を吹き返すという意味の蘇生に類する記述は旧約聖書にも出てきます。エリヤとエリシャの例が一番有名かもしれません(T列王記17:17-24、U列王記4:18-37)。同様の記述と解される例は、新約聖書にも出てきます。マルコ5:35-43、使徒9:36-43その他の箇所を見出すことが出来るでしょう。

 ところが教会が告白する復活は、これこそ私たちが、体の甦り、永遠の命を信ず、と告白している、あの終末的な出来事なのです。聖書の言葉で言えば、神のラッパの響きと共に(Tテサロニケ4:16)朽ちるものが朽ちないものに変えられ、死ぬものが死なないものに移される、素晴らしい出来事なのです。キリストが眠った者の中から初穂として甦られたとおりなのです(Tコリント15:20)。

 次に私たちが、信仰をもって思いを巡らせなければならないのが、復活信仰の重要性ということです。Tコリント15:3、14、17に、もし復活がなければ、信仰は虚しいと、記されているとおりなのです。

 いま私たちのエステルの会では使徒行伝を共に読んでいます。その中にはその当時の説教や祈りが沢山出ています。そしてその全ての箇所において、キリストが死人の中から甦り、天に昇られたことが強調されています。

 教会は、私たちに与えられた神の最大の啓示の出来事でもあり、歴史の事実でもある、この主の復活に、すなわち、如何に思おうと、如何ともしがたいこの出来事に強く立っているでしょうか。ひょっとしたら一応のたてまえや、神話的言い伝えの彼方に追いやっていることがないでしょうか。

 復活の日まで私たちはどんな道を通るのでしょうか。思い巡らせましょう。

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