2004年
3月28日

≪今朝の聖書から≫
 聖書には、何回も「時」と言う言葉と、その時についての話が出てきます。

 ヨハネ12:20-36が開かれていますが、この箇所はどんな時についての箇所なのでしょう。
 2年前の過越の祭りのときに、イエス様は「宮清め」において、キリストとしての働きを始められています(公生涯)。2:13-22にその物語があります。そして同じエルサレムの過越の祭りの時に、最後の公の宣教をされているのです。

 そして注意を払いたいのですが、ここには幾人かのギリシャ人が出てきます。そして、同じギリシャ名のピリポに頼って「イエス様に会いたい」と申し出ているのです。その後、自身の死について、24節で「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」と語っておられます。これが最後の宣教の始まりです。

 私達は今、どんな時にあるのでしょうか。聖書は、ユダヤ人のみならずギリシャ人を始め信じる全ての人々を、キリストの体なる教会に導きいれよう、とおっしゃっているのです(ロマ1:16)。そしてなぜ一粒かといえば、生物学的な真理を用いて語られていますが、イエス様が真に孤独だったことを示しています。私達は、復活と聖霊の降臨の後、このことの意味を知るのです。そして世界への教会の働きが開始されることになるのです。

 その次に「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」と、語られています。どんなことでしょう、今ほどには人間が大切だと言う意識のない時代の話でしょうか。違います。私達は、人を愛し、人の命をそして自分の命を大切にし、尊重することを学びます。しかし知れば知るほど、自力に頼ろうとするがゆえの、実行できないことにも気付くのです。イエス様は、このことを「自分の命を愛する」と語っておられるのではないでしょうか。イエス様に頼ることによって得られる力こそが、一人の購い主が私たちに与えてくれている、力なのではないでしょうか。

 イエス様が栄光を受けること、それは御父が栄光を受けられることです。神が栄光を受けるとは、罪に苦しむ者や、一切の望みから切り離されて生きているように見える、全ての人に、父なる神の愛が完全に注がれるようにと言うことです。そこでイエス様は28節で「栄光を現してください」と祈りました。

 いま、私達はこのように聖書の言葉を理解する、時の只中に生きているのです。御父の愛の啓示が栄光に輝くことを知りましょう。

 

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