2004年
3月21日

≪先週の聖書から≫

  ヘブル書3:145には、「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。それについて、こう言われている、『きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』。」とあります。教会から、それには様々な理由があることは分かりますが、足の遠退いている方々に、私たちも呼びかけたいと思います。

 何故遠退くのでしょう。何につまづくのでしょうか。教会においでになっている仲間に、このような呼び掛けをするのもおかしな事かもしれませんが、教会における主の恵みを存分に知っている私達には、こんな呼び掛けをする充分な力もまた、与えてくださっているのではないでしょうか。

 無意味に受洗する人は1人だにいません。新しい年度、イースターを共に迎えることが出来ますように、全ての過去は、全て何であれ恵みにつながっている事にもう一度、期待をし、解決していこうではありませんか。

  使徒行伝220-21を見てみましょう。
 「主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに、月は血に変るであろう。そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。」とあります。神様の栄光に私たちが受け入れる前にはすごいことが、災難として襲い掛かり、この世の蒙る被害も計り知れないであろう、といっているのです。しかし主の名を呼び求めるものは救われると言うのです。

 今日は子の呼ぶという事に気を止めたいと思います。誰々を呼ぶということが聖書にも沢山出てきます。旧約聖書にも新約聖書にも出てきます。じつはわたしたちも、呼んでいるのです。“父なる神様”と言うのは既に呼んでいることになるのです。しかし呼ぶと言う動詞は、文法的には自動詞としても使えますが、あるものを特定して呼ぶと言うのが普通の使われ方になっています。曖昧なものやはっきりしていないものを呼ぶことは出来ないし、第一不安になってしまいます。お祈りのときに呼ぶのは、この名前こそしっかりした名であるからなのです。

 いろいろの言い方がありますがお祈りとは呼ぶことです。何を賛美しているかはっきりしないで賛美をしてみたり、誰に祈っているのか曖昧な中で祈っている様子を思い出してみて見ましょう。主の名の如何に確かであるかが分かると思います。

 更に危険なことは、余計なものが中心になってしまうことです。私達一人一人にとって神様がどんな方なのか、勉強してみるのも、ずいぶん役にたつことではないでしょうか。

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