2004年
3月14日

≪先週の聖書から≫
 先週の夕礼拝では、主の山上の説教(マタイによる福音書によると、5〜7章にあたり、ガリラヤ伝道の総括的な内容。或いは、弟子たちの任職にかかわるものと理解される部分です)に属する箇所、『マタイによる福音書』6:16〜18が開かれました。

 私達は、信仰によって救われたことを感謝している。この立場から読み進めてゆきましょう。ですから多くの人々にそのことを知らせるのですが、そこに落とし穴のあることをイエスは見抜いておられたのです。
 “6:16 また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。”と、偽善やおごりたかぶりの一切介入してはいけないことを指摘しておられるのです。

 断食は、真に神の前にへりくだった姿勢でしょう。疲れることも伴います。私たちも、人よりも私のほうが神に正しく仕えている、と言いたくなるものです。言いたくて仕方がないかもしれません。しかし、“6:17 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。”と、気付かれないようにしなさい、と聖書は教えています。

 山上の説教の、あまりの素晴らしさに、多くの人がその魅力を感じています。キリスト教信仰を持っていなかったのですが、ガンジーは、その倫理的崇高さに憧れ、この箇所を愛していたそうです。

 また、信仰者は、その内容が、私たちの実践する力とは、遠い事に圧倒され、シュヴァイツァーのように、終末直前の一時にのみ、我らはこの実践を交わりにおいて体験できる、と言わざるを得なかった人もいます。

 メソジストはどう考えるでしょうか。
 答えは、実生活の課題として、捉えるということです。具体的には、“害を行なわないこと(doing no harm)”にかかわる、神の名を虚しく使うこと、と理解するのです。良いことをおこなうことではなく、害をなさないことの大切さを理解したいものです。

 やっと、主の山上の説教に記されていることに気付き、狭き門を知りつつある私達に、こちらの門が広いですよ、と誘惑は待っているのです。

 “偽善者のようにではなく”、と言う言葉に気付いたなら、隠れてしまうことを考えてはいけません。語らないことを考えるのでもありません。

 私たちの式文にあるように、“正しく崇め”、“御名の栄光を現す事”につなげる為に、毎日の教会生活も、また証も大胆に行なって行きたいものです。
 山上の説教に感謝しようではありませんか。

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