≪先週の聖書から≫
先週の夕礼拝では、旧約聖書から『レビ記』19:9〜13が開かれました。
レビ記と言えば、時代遅れの根拠もないような、祭儀上の律法の連続だなんて思って、読み飛ばすことが多いのではないでしょうか。あれはダメ、これもダメ、こうしなければならない・・、そういった定めの連続です。
しかし、その書かれた中には、素晴らしい知恵が隠されているのです。神の知恵です。
中世において、ペストやコレラが大流行したことが度々ありました。細菌やウイルスなどの発見がまだ行われていない時代ですから、人々の恐怖と、手の打ち様の無さは、大変なものだったでしょう。
その中で、イスラエルに与えられた律法を忠実に守っていたユダヤ人の中には、発病する人が著しく少なかったこともあるそうです。食物の調理の仕方や、生ものの扱いなど、現在の衛生学によっても、その通りだといえることが沢山あるのです。日常生活の知恵であったのです。
それ以上に神様の知恵は、私たちの愛の知恵も示しているのではないでしょうか。主の名において、互いに偽ってはならない(11節)、とあるのと同じレベルで、“畑の全てのものを刈り尽くしてはならない(10節)”と言うのです。なぜなら、それは、貧しい人のもの、旅をする寄留の人達のもの、僕のものだからだと言うのです。
考えてみてください。なんという優しさではないでしょうか。全てを取り入れる事に躍起にならずにはいられない中に生かされている現代人には出来ないことかもしれません。すなわち、貧しい人のために、神の名において、連帯しなければならない、と教えているのです。
それと同時に、富を生み出す者、この場合は、地の実りを刈り入れる人(9節)ですが、これらの人々に対しても、限りない豊かさの源泉を指し示してはいないでしょうか。単に作物だけではなく、労働や、研究においても、まだ余力がある状態こそ、活き活きとした、豊かさの根源を私達に教えてくれる時も多いのではないでしょうか。
全てが疲れ果て、明日の生活のために悩まざるを得ない現代、
“実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。(ロマ8:22〜23)”
と、パウロが言っているとおりなのです。
御霊の実を持っている私達に、旧約聖書はなんと優しく語りかけることでしょう。
|