2004年
2月29日

≪教会カレンダーから≫
 いつかの週報で、教会暦のことに心を向けてみたことがありました。毎年変わるイースター(復活祭)も、考えようによっては厄介なものです。確かにその日に主がよみがえられた、ということになれば、私たちの誕生日が何月何日と決まっているのと比べると、これもまた厄介な話です。

 今年のイースターは、教会暦で4月11日になっています。復活を「記念」するために設けられたこの日も、そう簡単に今の日付になったのはありません。結論から申しますとこうです。春分の日の次の最初に来る満月の次の最初の日曜日をその日とする、というものです。この日がはっきりしていないと“栄光の復活を祝っている教会から少し離れた教会に旅したときに、そこでは十字架上の苦難を記念している”などという、こんがらかったことになってしまうこともありました。

 “さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた(マルコ14:1)。”このような箇所から、その日がいつだったかを知ることができますし、“ゆえに、私達は、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。”これはTコリント5:8ですが、初めの頃の弟子たちも、毎年キリストの復活を祝っていたことが想像されます。初めの頃の教会では、ユダヤの暦に従ってニサンの月の14日と決められたこともあるようです。ニサンの月は捕囚後バビロンから持ち込まれた第一の月です。

 さてこのニサンの月の14日を、復活日とする小アジアの教会と、それに続く主日を復活日とするアレキサンドリアの影響を受けたローマの教会との間で、長い戦いともいえるような議論がありました。前者が太陰暦、後者が太陽暦の影響を受けていることは明らかです。

 最初の論争は150年ごろのようで、スミルナの監督ポリュカルポスとローマの監督アニケトゥスの間でされたそうですが、解決を見ることがなく、170年頃には、ラオデキアで議論が沸騰しました。エウセビウスなどがこの経過をこと細かく『教会史』などで説明しています。皇帝まで巻き込んだこの論争は、結局エイレナイオスの仲介によって「礼典上の相違であって、神学上の異論ではない」とされ、決着を見ることになったそうです。1582年にグレゴリウス13世がグレゴリウス暦をユリウス暦に代って採用するに至り、今日に近づいてきました。太陽と月によって定められた、素晴らしい歴史の日。
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