2004年
2月15日の週報
(p.4)

≪先週の聖書から≫
  先週の夕礼拝で開かれた聖書の箇所は、『マタイによる福音書』25:1〜でした。よく知られている箇所です。婚礼の宴に招かれた十人の乙女の物語です。イエスはこの物語を、天国の例えとして引き合いに出しておられるのです。

 当時の結婚式について思いを巡らせて見ましょう。今でもかなり多くの地域でそうであるように、この時代の結婚式というものはとても、長い時間をかけて行なわれたようです。多くの人々が招待され、日常から離れて、喜びを分かち合って過ごしたと言われています。

 もうひとつの特徴は、花婿のほうが花嫁の家に、やってくるということです。更に聖書を見ますと、それがいつなのか、昼なのか夜になってしまうのかも、はっきりしていなかったようです。

 先週触れました「カナの婚礼」の物語で描かれている場所には、実際イエスがおいでになりましたし、結婚あるいは結婚式というものが、聖書の中では重要視されているようです。カナの婚礼と違ってここは例え話ですが、何が天国の到来について語られているのでしょうか。

 私たちの気を引く箇所が何箇所か出てきます。9節に“すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』”とあります。五人の用意周到な乙女が、思慮深くない乙女に言ったアドバイスがこれです。

 「たとえ自分のものがなくなる事が分かっていても与えなさい」というのが聖書の教えじゃないか。などと思われる方もあるかもしれません。しかしそれとは話が違う、と聖書は言っているのです。信仰は分け与えることはできない、自分で自分のために信ずるしかないのだというのが聖書かもしれません。

 教会には何人かの人々が集っています。こんな話に発展するかもしれません。それじゃここで言う賢くなくて思慮深くない乙女に当たるのは、我々のうちの誰だろう。もしそれが私だったら、私もそのうちの一人だったら大変だ、というのです。これが本当だったら、私たちの教会を随分と乱すことになるかもしれません。

 しかしここにはトリックがあります。教会にいるのは、賢く思慮深い、神の国がいつ来ても大丈夫なように、常に目を覚ましている人々なのです。神さまを知らない多くの方に、「油の用意を!」と呼びかけることができますように。
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