2004年
1月25日

≪先週の聖書から≫
 
ヨハネ2:1〜11が先週の礼拝の聖書箇所でした。

 主が最初に行なわれた奇跡(しるし)に関する物語です。カナにおける結婚式の出来事でした。イエス様は、やがて御自分を十字架につけることになるユダヤにお生まれになり、ユダヤ人を拒まれること無く、むしろ積極的に彼らの中に入って行かれたことが分かります。

 さてこの頃のユダヤの結婚式ですが、一週間とか十日間という期間続いたと考えられています。招待された人々はそこに集まり、ともに祝い、男性と女性が結ばれると言う、人生において最も重要な出来事のひとつを、ともに神の前で祝い、非日常的な喜びの体験と、神がそこにおいでになるという体験をしたことでしょう。聖書も、弟子たち、また教会も、結婚の大切さについては教えていることです。
 
 ここに書かれている結婚式は誰のものかはわかりませんが、結婚式の場に、イエス御自身がおいでになり、その母とともに列席されたのです。素晴らしいことではないでしょうか。私たちもチャペルで結婚式が行なわれるとき、そこに主イエスのおいでになることを思い出さなければならないでしょう。

 さてこのユダヤの結婚式ですが、よほど裕福な家の結婚式ででもなければ、後から後からぶどう酒を途切れなくすることは出来ませんでした。この結婚式も同じことになりました。ぶどう酒のストックがなくなったのです。そのときイエスが母マリヤを通して、自分の位置、すなわち、父なる神に属するのものであり、底を尽いたぶどう酒で悩む人間の側に属してはいないことをおっしゃったのです。“イエスは母に言われた「婦人よ、あなたは、わたしとなんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。(2:4)”という、なんとも不思議な母に対する言葉がそのことを示しています。このようなことがあり、水瓶に汲まれた水がぶどう酒に変わるという奇跡が行なわれました。

 “イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。”と2:11にあります。

 奇跡を見たから信じたのか。私達は奇跡なんか見ていない、と思いがちかもしれませんが、実は軌跡をみているのです。それは聖書を通してでありますし、また、わたしたちの経験を通してのことです。その証拠に、私達は教会に集い、イエスは主である、と告白しています。

 繰り返しますが、この物語は、遠い物語ではなく、日常に関係する私たちのためのしるしの物語なのではないでしょうか。

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