2004年
1月18日

≪先週の聖書から≫
 
ヨハネ20:29には“イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。”とあります。

 しかし先週の礼拝で開かれた聖書の箇所、ヨハネ1:35〜51には“来たりて見よ”と言う御言葉に満ちています。いく度となく“見る”と言う言葉が使われています。

 私たちの日常においても、この見ると言うことがとても力を持っているのです。少々理屈に合わなくても、見てしまえば信じますし、私たちが“教会ってどんなところ、何をしてるの”と質問されたら、長々と説明する前に“是非、来て、見てください”と言うのではないでしょうか。

 信仰者には見ないで信じていることが沢山あります。信じているのは、それを伝え記している聖書という確実な知らせなのです。見ないで信じることについてのヨハネの記述はこのことを言っているのかもしれません。
 しかしイエスは、見えるかたちで現れてくださいました。最初の弟子たちの前にもそのようにして現れてくださいました。29節に続いて二回目ですが、弟子たちはここでもう一度「御覧なさい、神の子羊です」と聞き、従って行きます。この神の子羊という言葉こそ、旧約聖書の成就と、贖罪の救いを示しています。罪の中で重荷を負っている人にはアドバイスではなく、実際にその負荷をなくすこと、ここでは身代わりの子羊を示しているのではないでしょうか。

 もともと罪は、それを行なわないように務め、ひたすら罪の許しのための悔い改めを伴いますが、完璧な律法の順守によっては、救いにまでは至りません。パウロの信仰もこのようなものでした。信仰によって、ただ信仰によって、不思議と神ご自身が持っていた義が、私たちの罪と交換されるのです。聖なる交換と言う言葉もあります。

 エステルの会では「使徒行伝」13章を学んでいますが、13:38にある“だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。”と言うところに気付くはずです。

 パウロはこのようにはっきりと、義について証をしています。これも礼拝説教で取り上げた、聖書の箇所とは違うことが書かれているわけではないのです。

 私たちも今やはっきりと、救いを見たので、教会に来たのではないでしょうか。そしてこの神の子羊を見るのです。
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