2004年
1月11日

≪先週の聖書から≫
 
私たちの教会の役員会の始めには、いつも聖書が開かれ、デヴォーションの時を持っていますが、今月の聖書の箇所は、『エゼキエル書』34章1節以下でした。
 「イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない(
422-3)」。
 “牧者”と言うのは、文字通り今で言えば牧師のことと言えるでしょう。そして、このような宗教上の指導者が、イエス様の言葉で言えば、“私の羊を養いなさい(ヨハネ
2115)”と言う指示を忘れ、立場を利用して、私服を肥やしているのではありませんか、と言う指摘をしていますが、非常によく分かるような気がします。

 そのとおりです。自分に一つの教会が与えられていることを良いことに、好き勝手に、自分の考えている教会と違うからといって、あっちをこうして、こっちをあのように、などとまるで、盆栽のように考えるのも、何の努力もしないで、ほったらかしにしてしまうのも最悪のことです。

 しかしこの聖句には、反対のことも書かれているようには思えないでしょうか。それは、ある状況では、霊的にも経済的にも、羊を養うためにはあまりにも疲れ果てた牧者の姿もあると言うことです。このような牧師もいそうな気がします。如何に、したいことが山のようにある、と思ったにせよ、そのやりたいことに努力する力さえ、失われている状況です。

 どのような内容の生活を牧師がすればよいのか、貧しくても良いのでしょうか。リッチな待遇が良いのでしょうか。教会の決めることです。牧師を含めた教会がこの牧師の待遇を、一番働けるように決めるのではないでしょうか。

 何時かの週報で“教会に置かれる役員”のことを書いた覚えがあります。役員をはじめとする教会員がこの“わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者”と言われている状況と向き合わなくてはならないのです。また“霊肉ともに、羊を養うには、やせ衰えてしまった牧者”とも向き合わなくてはならないのです。

 草薙教会においても、牧師の務めが守られますようにお祈りください。そして、牧師が教会と対立し、会員が牧師と対立していたのでは、いつまでたってもこのような溝は埋まらないでしょう。
 牧師自身のこと、会員自身のこととして、牧師の働きが守られなくてはならないのです

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