2004年
1月4日

≪先週の聖書から≫
 夕礼拝の聖書の箇所は、創世記3章でした。
 
 創世記には、創造の物語、ノアの箱舟の物語、その他今の私たちの、現に持っている感覚や理解からすると、そのようなことがあったとは思えないようなことが、事実として沢山記されています。どのように思われるでしょうか。私たちの聖書に対する思いを豊かにしてくれるものがあるのではないでしょうか。全部間違いなく本当の出来事であると言う人もいますし、人々を教えるにふさわしい言い伝えのようなものであると言う方までいます。

 こんなことに議論が集中してしまうことが今日の目的ではありませんが、それにしても“へびが女を誘惑して”、“善悪を知る木の実”を食べなさい、と言ったというのです。はたして、どう理解したらよいのでしょうか。こんなことを考えるのも、聖書をより身近なものに、すなわち私たちと深く関わるものにしてくれるのであれば、―――その時に限って―――役に立つことではないでしょうか。
 
 さて、この物語の中でへびは、人に話しかけることが、出来ることになっています。へびは狡猾でした。そして、女はこの狡猾なへびの言うことに従ったのです。なぜ、アダムに相談することをしなかったのでしょう。その結果が堕落だったのです。

 私たちも、悪と相談することの多い時があるのではないでしょうか。多くの預言者が、“正しい道を求め悪から離れなさい”と言っているのにです。悪は実に巧妙に、アドヴァイザーの役を買って出てきます。“悪と言えるほどの悪でもない”、“不利益を蒙っても、そんなに正しくある必要もない”など、実に巧妙なのです。

 私たちは、悪ではなく、公義と相談し、アドヴァイザーとしなければならない時も、悪の試みとして、誘惑はやってくるのです。“主は公義を愛し、その聖徒を見捨てられないからである。正しい者はとこしえに助け守られる。しかし、悪しき者の子孫は断ち滅ぼされる(詩篇37:28)”のです。

 年の初め私たちは、キリストの公現を迎えています。朝の礼拝では、「ヨハネによる福音書」が開かれました。私たちは今、先の御言葉から分かるように、善悪を知ることが出来るのですから、キリストを、信じて価値ある方として迎え、その愛と救いの方をアドヴァイザーとすべきなのです。

 “律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである(ヨハネ1:17)”。めぐみとまことをまず大切にする一年でありますように。決して、狡猾なへびを知恵、そして力と頼むことのない様に、お互いに祈り合いたいものです。

 

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