≪元旦の聖書から≫
聖書の箇所は、申命記11:1〜12でした。
申命記はモーゼが、イスラエルの人々を奴隷の地から約束の地へ導き出した記録を、もう一度神の戒めとしてイスラエルの人々に、説教のかたちをとって語ったものでしょう。歴史を思い起こし、歴史において経験したことに現れている、神の偉大さについて、またその神の戒めを守ることの重要であることを語っています。私たちも知っているように、イスラエルの人々が清められるには長い時間が必要でした、具体的には40年の荒野の放浪生活です。実際約束の地、乳と蜜の流れる地へヨルダン川の東から、川を渡って入ることの出来たのは、あくまでも主の力を信頼していた、ヨシュアとカレブだけだったのです。その地は、エジプトの状況とはずいぶん異なるものです。”あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている(10〜11節)“。エジプトの地は、砂漠の地でした。しかし約束の地は、雨に潤っており、川があり、山と谷の地だというのです(12節)。
しかしこの箇所で大切なことが抜かされていることに気付くのではないでしょうか。それは“荒野の四十年”です。一体これは何なのでしょう。人が清められるのに必要な時間としてはあまりに長すぎます。神の約束は、この荒野ではなく、カナンの地なのだと言うことを意味しています。
旧約聖書を読むと、沢山のことに気付きますが、この時間の長さもそのひとつでしょう。まるで一人のイスラエルというものすごい長生きの人がいるかのようです。神様の約束はこのように一人の人の一生では測れないようなスケールの大きなものなのではないでしょうか。しかしそれと同時に、神様は、毎日そして毎年をとても大切にされる方なのです(12節)。
私たちは、毎日をおろそかにし、大きなスケールの神の救いの約束に、心を向けることのおろそかになることのある者です。しかしそのことは巨大な出来事として、約束通りに実現されるのです。主なる神様は、このような方なのです。毎日をおろそかにしないことが、大きな出来事のためには必要なのです。
私たちも単なる、つなぎの時を生きているのではないのです。救いのときを生きていることを今も神は語られます。愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである(詩篇127:2)。そして今年もです。
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