≪先週の聖書から≫
★12月28日の聖書の箇所は、『マタイによる福音書』2:1〜12が開かれました。
クリスマスといえば、先週読みました、羊飼いのところと並んでとても有名な、「東方の博士たち」のところです。
ところで聖書には何が書いてあるか、まとめてみたことがあるでしょうか。これもまた、ずいぶん無理な話で、聖書が語っているすべてのことが大切なのに、それから要約を作り出せ、というのも無理なことかもしれません。それに、人によっても、つまり信仰の内容によって違うというのも事実です。この違うというのも、実はとても大切なことで素晴らしい聖書の豊かさを示している証拠といえます。
それでは、聖書は聖書の要点をどのように語っているでしょうか。『使徒行伝』7:2〜53を見てみましょう。50節にもなると、ずいぶん長くなりますが、ステパノの説教が記されています。父祖たちに始まり、救いの完成まで、実に力強く、彼の聖書理解が書かれています。どのように聖書を理解するか、それが信仰の告白と言われるものです。私たちは、毎週信仰告白として、使徒信条を全員で確認しています。
さて、何故こんな話をここでしたいかといいますと、それが“出来事”の連続であるということです、そして『使徒行伝』7章では、“あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった。”と結んでいます。キリストの人としての誕生、これもどんなに偉大であっても、やはり出来事です。そしてこの博士たちの物語が、その出来事を証しているということが言いたいのです。
同じことです、我々も何かについて語ろうとするとき、それぞれの観点に立って重要と思えることを強調します。しかし、要約には含まれない日常もまた、重要なのではないでしょうか。
ステパノの死ぬ前の説教においても、そのことが起こるまでには、長い歴史があったと告白しています。
誰の人生にも大切なときはあります。出来事の時と言っても良いかもしれません。しかしまた、素晴らしいときは、たいしたことのないように見える日常によって用意されているのも事実なのではないでしょうか。ここに我々は“エポック(出来事)とエポックを結ぶ連続的な時間に生きている”と言えるのではないでしょうか。
クリスマス、とても私たち自身にとっての素晴らしい日ですが、そのは準備され、私たち自身のこれからにつながるものであり、この行き着くところは実に素晴らしい、主の御国であることを再発見したいのです。
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