≪先週の聖書から≫
聖書の箇所は『ルカによる福音書』2:8〜20が開かれました。長く教会生活をおくっておいでの方にとっては、もう有名な箇所です。『マタイによる福音書』と並んで、人となられた主なる神の誕生の次第についての箇所です。どちらの福音書を開いても、主に出会った人々は変えられていることにまず。
ルカの記述によると、羊飼いですし、マタイの福音書では、博士たちがこの変えられて人々です。聖書には出ていませんが、他にも変えられた人々は沢山いるはずです。この二つの物語が今も残されていることに感謝したいと思います。
けれども、気を付けたい事があります。“主に出会っていても気付かない”人々があり得ると言うことです。多くの救われるべき人々が、主を拒むことによって、そこに主がお生まれになっていることに気付かずにいるのではないでしょうか。
さて、2:20には、“羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。”とあります。これが変えられた姿なのではないでしょうか。天使の出現にびっくりして恐れた羊飼いが、神をあがめ、また讃美し、人々にそのことを伝えるものに変えられてゆく姿を見ることが出来ます。
私たちは、もう忘れているときもあるかもしれませんが、イエスとお出会いしたときに変えられているのです。もう一度思い返してみるのも、素晴らしいクリスマスの過ごし方だと思います。
もうひとつこの箇所で書かれていることに触れましょう。全体に旧約聖書の成就という流れの中で、福音書はイエスの誕生について説明しているということです。先に『イザヤ書9章』などを通してこのことは学びましたが、インマヌエルの主、つまり神は私たちと共においでになる、というモティーフで描き出されているということです。イザヤ7:14そのほかの箇所に出てくるこの言葉「インマヌエル」がクリスチャンのとても好きな言葉になっているのは、神が、神として栄光の座にあることに固守するのではなく、“御心にかなう人々”の救いのために、低くなられ、人となり、購いのために、幼子のかたちで、この世においでくださったことを一番大切なことと信じているからでしょう。
私たちのクリスマスは、パン屋のケーキではありません。25日はもう、商品価値ゼロなんてものではないのです。
1月の6日には、博士たちに現れたとされる公現日をむかえます、12月28日は降誕節第一主日です。クリスマスはいよいよ私たちのものです。
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