12月14日

≪先週の聖書から≫ 
聖書の箇所は『コリント人への第一の手紙』4:1〜5が聖書日課にしたがって開かれました。ここで、パウロたちのキリストの福音を、今こそ自身のものとしなさいという大胆な主張が述べられています。“このようなわけだから”と書き出されているのは、“あなた方はキリストのもの”“キリストは神のもの”に続いています。そして自分たちを“神の奥義”の管理者であると言っています。神の奥義“God's secret truths”とは一体何なのでしょう。一言で言えば、私たちの救いの事実でしょう。すなわち、それは無代価であり、完全であるということかもしれません。神が望まれない私たちの姿、対立や悲しみや不安、死の恐怖、これらすべてが神の望まれない私たちの姿なのです。この奥義に関して使徒パウロは、管理者である、と言っているのです。管理者である以上、それを守らなければなりません。変更を加えても、失くしてもいけません。これが奥義に対する“servant”なのです(4:2)。訳すと“しもべ”です。
 次にパウロは極論と思えるように言い切っています。私は自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。私を裁くかたは、主である(4:4)。解説するとこうです、たとえ私が、やましいことを何一つしていなかったにせよ、その功績によって義とされるわけではない、といっているのです。このように徹頭徹尾、福音という立場からあなた方の教会を見ると、次に、裁くということについても述べなければならない、とパウロは続けます。私たちも判決ということを大切にします。別に法律の世界でなくても、対立に際して、どちらが正しいかを非常に重要に考えます。聖書は、ローマ人への手紙2:1などで、裁くことを戒めていますが、これはどんな意味なのでしょう。判断を停止しなさい、などと言ってはいません。すべてに正しくあるべきです。訓戒せよということも聖書は述べていますが、言っていないことがあります。他の人の救われることが許せない、ということです。放蕩息子が帰ったとき、この罪人が赦される事が兄には許せなかったのです。そのような思いがあったなら、自分の救いを求める思いも、無力なものとなってしまう、と聖書は語っています。“恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい(ピリピ2:12)”。救いの達成に努力しないで、批判されるものが赦されることの許せないのも罪かもしれません。

トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置