12月7日

★ アドベントの第二週にあたって、『ヨハネによる福音書』5章36〜47を開きましょう。そして主イエスがおいでになる備え“主の道をまっすぐに整える”ことをしたいと思います。

 ヨハネ1:23には、彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」とあります。私たちが、世の中のコマーシャル・ベースのクリスマスからはなれ、私たちの、すべての悪いところが、神様の願っておいでになるように変られる、いや既に、御子を信じる者は、既に変えられていることを、確信し、多いにこの神様に期待をしたいと願っているのです。

 何度もクリスマスを迎え、何事も起こらないことや、苦痛や不安がいっこうに変えられないことに、慣れっこになっているところはないでしょうか。臨まず期待をしないキリストへの思いには、明らかなように何の結果もないのです。神様の力をこちらから制限してしまうことの無いようにしたいものです。

 5章の39節には、“あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである”とあります。どんなことでしょう。
 当時のユダヤの世界では、律法を守り、職業化した、律法学者の指示に従うことによって、神の身元に近づき、永遠の生命を得ようという、苦痛にも似た教えが満ちていました。しかし5章46節の“もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。”ということをすっかり忘れていたのです。
 申命記17:17の“わたし(主なる神)は彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。”というのもそのひとつです。

 私たちは、キリストにあって与えられたキリストご自身の御体である教会につどい、その重荷を負っています。「御言葉は成る」ことに確信したいと思います。

 今や裕福という言葉が、幸福という言葉に変えられて理解されていることもあるでしょう。このような中にあって、極みまで、苦しみ贖罪のために、御父のもとからおいでになったイエスを、再び抹殺してしまうことのないように。アドベントは、心を主に向けるためにあるのです。

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