11月23日

(ヨブ記6:6〜12))


≪先週の聖書から≫

 先週の夕礼拝の聖書の箇所は『ヨブ記』6:6〜12でした。

 ヨブ記はヨブという、神の前にも人の前にも正しい人の物語です。また言われ無き試練と苦難の物語です。

 読む人達は抜け道のないようなヨブの試練の物語に接し、改めて試練の意味について、また現実の試練について考えることと思います。ヨブ記には、突如この天上の会話が挿入されています。

 あるとき天で神様と悪魔が会話をしますが、神は、ヨブほどの正しい者はないと言います。悪魔は、ヨブが神に対して正しいのは、神がヨブを祝福されるからで、得にもならないのに、神を敬うはずがないと言います。「あなたは彼とその家およびすべての所有物の周りにくまなく、まがき(囲い)を設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」(
11節)、というのが悪魔の分析です。

 実に的を得たような分析です。私たちも、幾度か教会に行くたびに、それが原因だと思えるようなことで、不利益を蒙ったとしたら、はたしてクリスチャンでいることを喜ばしいことと思い、感謝し続けることができるでしょうか。

 悪魔はちゃんと“ご利益”ということを知っていました。

 そこで神は、それではこのヨブの運命をお前に託そう、言うのです。試されたヨブはたまったものではないのですが、とにかく悪魔は彼を殺さないことを条件に、神様と賭けをすることになります。

 ヨブは極限までの試練を味わうことになるのですが、愛する者をまず次々に失ってゆきます。悪魔はこのことが実に大きな痛手になるということも知っていました。愛する者を失うことは悲しいし、愛する者が幸福なことは幸福なことです。

 私たちも実はその通りだということに気付いているでしょうか。愛する者を失って試練に試練を知る。信頼すべきものをいつもは信頼せず、逆に失ってから信頼したくなることもあります。私たちの日常にはこんな事があるのではないでしょうか。

 悪魔は実にあの手この手で誘惑や苦難を駆使して私たちを試みてきます。“私たちを試みにあわせず”と祈りなさいとイエスが仰っている事について、もう一度心を留めたいものです。個人的な病や貧しさに加えて多くの試練があるのです。

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