≪先週の聖書から≫
先週の夕礼拝の聖書の箇所は『ローマ人への手紙』8:22〜23が開かれました。
22節にはこのように書かれています。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。被造物全体が、当然そこには、私たちも含まれているのですが、私たちを含む神によって造られた全てのものが、しかも共に、産みの苦しみを続けているというのです。
今日に至るまで実によく教えてくれている言葉だと思います。自然破壊とエコロジー、個人的な努力によっては如何ともしがたいような、人間同士の傷つけあい。これらすべての悲しい状況が、私たちの現状なのです。“産みの苦しみ”とありますから、何を産み出したいのか知っているのです。おぼろけではあっても、こんなことは誰も望んでいる状況ではない、と言うことは分かっているのです。パウロの理解はこのようなものなのです。哲学的に考えても、実に的を得た指摘です。
23節には、それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。と書かれているのです。あまりこのような箇所は、しおりや、色紙などに書かれて気持ちのよい箇所ではないかもしれませんが、なんと私達に大きな期待を与えてくれている箇所でしょう。破壊的と思えるような状況の中にあっても私たちは“御霊の最初の実”を失ってはいないというのです。しかも、被造物全体が贖われることを願い、待ち望んでいるというのです。
教会は悲惨です。南北戦争を正当化した理屈もお互いに考え出しましたし、南アフリカの教会は、今に至るまで黒人差別にあえぎ苦しんでいます。カリフォルニアの山肌はあらされ、保水力を失い、山火事と洪水しか産み出さない状況になっています。
私たちは“人に迷惑をかけないように”といいますが、“人に迷惑をかけなければ生きていけない”ということを学ぶべきでしょう。たんぱく質を他の動物から取り(創世記19章)神の造られた自然の中で、管理者としての役割を、責任放棄して、あまりにも勝手に自然を破壊しているのではないでしょうか。
子たる身分に導き入れられた我々は今、クリスマスを迎えようとしています。救い主なしのクリスマス、そうならないようにしたいものです。
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