11月9日
「 父 の 栄 光 」
(ヨハネによる福音書8:51〜59)


≪先週の聖書から≫

    聖書の箇所は『ヨハネによる福音書』8:51〜59が開かれました。よく語られることですが、「一度生まれた者は二度死に、二度生まれた者は一度死ぬ」と言われています。二度生まれるとは、まずこの世に母から生まれ、そして洗礼を受け、二度生まれた者として、永遠の生命に導き入れられている、という意味です。一度生まれた者とは、この世に肉体として生まれながら、神の愛を知らずにいるという状態のことです。そして二度死ぬのです。まず肉体において死に、そして魂においても死ななければならないという意味です。これは正しく、また信ずべき聖書の事実でしょう。さて聖書の箇所ですが、851に、「よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」と書かれています。ここに出てくる“死”は、そのほかの意味にも解釈できるよう単語ではなく、文字通りの死なのです。聖書には「死んでも生きる」という言葉もこの先、記されています。イエスをとり巻いていたユダヤ人は、この死という言葉の違いに気付かなかったのです。私たちも、いくら、聖書には一言一句間違いはない、と言ったとしても、イエスが魂における永遠の死についておっしゃっているのだということに気付かなければ、死んでも死なない、というのは実に不合理な言葉になります。旧約聖書を信じ、またそれを守り、それに頼ろうとしていた人々にとってイエスは、赦せない存在でした。「あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか。」と、8-53にある通りの理解をしていたのです。それどころかイエスの語られる真実はこのようなものです。それは、“先在のイエス”と呼ばれていることでした。預言者たちが見ていなかったにもかかわらず、あんなにはっきりと信じ疑わなかった救い主・メシヤなるキリストを、現にそこにいるのに信じることが出来なかった人々にイエスは「私がそれであり、“創造の時から私はいた”」とおっしゃっているのです。キリストは今も等しく、私たちと共においでにおなり、私達に友として語りかけてくださっていることを、そして私たちも、この方によって贖われ、この方の名によって祈る教会生活を守ってゆきたいものです。

 

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