11月2日
(エステルの会より)
(使徒行伝9:1〜30)

≪先週の聖書から≫ 
 (エステルの会より)使徒行伝9:1〜30が開かれました。


 新約聖書の中でも一番有名な箇所のひとつに数えられるでしょう。“サウロの回心”と呼ばれているところです。サウロがダマスコへの教会迫害の道で、復活の主に出会った物語です。旧新約聖書を通して、召命の記事・回心の物語はいくつも出てきます。そしてそこに何が書かれてあるのかは知っているのですが、ある時、それは読者が必要とする時と言えるのですが、これこそ私のための神の言葉だったのだ、と思える時があるのではないでしょうか。聖書はまさしく「時にかなって美しい」書なのです。

 さて私達にとっての時にかなって美しい言葉は何だったでしょうか。今回はこの回心の箇所をアナニヤとバルナバという二人の人の存在という観点から見てみたいと思います。

 主はアナニヤに、とても赦すことが出来ないようなサウロのためにとりなしの祈りをするようにおっしゃっているのです。主のこの呼びかけは、サウロに対するものと同じくらいの重みがあったのではないでしょうか。そしてサウロの回心も、この人によって守られていたのも事実なのです。

 また教会の歴史になるに際してバルナバの果たした役割りも実に大きなものでこの人がいなかったら、パウロの世界宣教の歴史も聖書になかったかもしれません。サウロ(パウロ)が教会に受け入れられる役割を果たしのですから。

 さて、私達はどんな人に囲まれていたでしょうか、いるでしょうか。すべてのクリスチャンは、人によって導かれ守られてきているのではないでしょうか。とりなし手の存在なしにクリスチャンになった人は一人もいません。誘ってくれた人、聖書を届けてくれた人、とにかく、神様から直接人を介在せずに、信仰の道にたどり着いたという人はいません。

 これは、人に左右されない、ということとは違います。私達を御言葉において信仰に導いてくださるのは神御自身です。これはどんな人にも左右されないものです。

 しかしながら、そこには二つの意味で人が存在します。ひとつは、導き手としてす。もうひとつは、私達が毎礼拝において告白するごとく、聖徒の交わりを信ず、という意味でです。誰とも関係なく、私は信仰を守っているのだということの虚しさを考えてみれば、兄姉の素晴らしさも分かるというものです。人がいなかったら、“証し”をすることも出来ません。今もシリヤのダマスカスにはアナニヤを記念する教会があります。
 こんなことに思いを馳せるのも、楽しいことではないでしょうか。

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