≪先週の聖書から≫
ヨハネによる福音書1:1〜5、創世記1:1〜5が開かれました。
神が創造された。信仰者にとっては当たり前の理解のようです。聖書はこのように述べています。あるとき神の霊は、創造の業に着手され、天と地とを造られた、と言うのです。神の思いといってもいいでしょうし、神様なんていないと思っている方に対しては、意志、方向性と言ってもよいかもしれません。
創世記のはじめはこの創造の大ロマンから始まっています。ヨハネ福音書のはじめの1:1〜18をロゴス賛歌と言っていますが、そこではこの神の意志をロゴス(言葉)といっています。神が神ご自身のために創造されたのです。
さて創世記の創造物語についてですが、「良しとされた」という言葉が幾度も使われていることに気が付きます。神がこの世・宇宙を創造された時、人々をはじめとするすべての被造物はよかったのです。神が与えた諸科学によっても、このことは徐々に明らかになっています。以前は、宇宙に初めがあったなどとは空想で、科学的とは言えない、と考えられていましたが、今日ほとんどの物理学者にとって、宇宙の初めというのは、計算可能の範囲になっているようです。今からおよそ百五十億年以前に宇宙はただの一点から創造され、それ以前について考えることこそ、仮設に過ぎないことになっています。
とは言え、創造物語はそんなにはっきりと記述されている訳ではありません。例えば聖書に書いてある第一日とか第二日というのはどういうことなのか、確かにいろいろの理解を生み出しています。そのままそうなのか、何かの、今の私たちには分からない単位なのか、それとも言い伝えや神話に類するものなのか。実に私たちの想像力を豊かにしてくれるのですが、それらも全てが神によって創造されたという事実によっているのではないでしょうか。
ヨハネはこのことを高らかにロゴス賛歌として歌い上げています。黙示録21:10には「神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るエルサレム」とあります、私たちには未体験の啓示です。しかし私たちは、救いの事実として告白します。同じです。造られたものがどの程度客観的に自己の創造の過程を見ることが出来るでしょうか。未来の救いの啓示に対して、過去への啓示などということもあります。素晴らしいのは、すべてが美しく創造され、今再び、贖われたものとして、再び、創造に対して、再創造とう形で神の者とされていること。「人をも造り変えて(新聖歌21)」くださることです。
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