10月5日
“主を想う”ということ』
(詩篇119編)

≪先週の聖書から≫

聖書 詩篇119編
 詩篇119編は、日本語の「いろは歌」のように、ヘブル語の「いろは」つまり各行の頭に「アレブ、ベス、ギメル、ダレス・・・」の文字が順番にくるように書かれた、韻律の美しい詩です。

 この作者は、出だしに限定された文字を用いつつ、「いかに主を同じように讃美できるか」を、信仰の内に使命感をもって挑戦したのではないでしょうか。この119編はどの段落を読んでも非常に似た表現があって、でも微妙に違っていて、そしてその言葉は非常に吟味されているように思えます。日本語訳はこの韻律を表現するために聖書の段落を変えてあるのですが、当然ながら韻律の美しさをリアルに味わうことはできません。でも翻訳は「要するにこういう意味」ではなく、その吟味された表現のわずかなニュアンスの違いすらも日本語で味わえるように非常に苦労したのだろうと思います。

かの有名なバッハは、メロディーを右手で、そしてその楽譜を逆さまにしたメロディーを左手で弾くとき、とても素晴らしい音楽となるような作品や、そのほか沢山の音楽家ならではの仕掛けが入った教会音楽を作りました。

ところで、彼らのジグソーパズルのようなこの挑戦は信仰とどんな関わりがあるのでしょう。きっとこのような仕掛けを考える信仰者は、何をするにも常に心のどこかに神様のことがあったのではないでしょうか。この詩篇の作者は、この詩が初めての作品ではなく、他にも沢山の詩を書いてきたでしょう。聖書とは関係の無い「いろは歌」を書いたことがあるかもしれません。バッハも、聖書とは無関係のところで、生活のための仕事としての作品として曲を書く中で芽生えた遊び心によるトリック楽譜を書いたかもしれません。でもこれらの人々は、その業や発想をいつも「なんとか自分の信仰の表現として用いることはできないだろうか」と結びつけていて、そしてその中から生まれたものが、今こうして私たちに残されているのではないでしょうか。

 私たちも、業を用いて何かをするときや、毎日の平凡な、あるいは困難な生活の中にあっても、常にその中で見付けた良いものを「私はこれを教会のために、主のために、どうにかして生かすことはできないだろうか」と常々思えるようでありたいものです。

トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置