9月28日
何が新しくなったか』
(ルカによる福音書15章11節〜32節)

≪先週の聖書から≫    

  聖書に、放蕩息子の物語があるのをご存知だと思います。それはルカによる福音書15章の11節以下に出てきます。先週は、この11節から15章のおしまい32節までが開かれました。この、悔い改めて家に帰り、父の赦し求めたという物語はずいぶん有名な話で、教会にあまり行っていない方でもご存知のようです。

 15
章に出てくる三つの物語の中でも最も長い物語です。この放蕩息子の物語、はじめに、ある人の二人の息子があった、と書き出されているところを見ると、実はイエスが教えようとなさったのは、この父親の物語だったかもしれません。この息子ですが、誰だって無一文になり、豚飼いのところに身を寄せ、豚の餌まで食べようとすることを初めから願っていたはずはありません(16節)。

 私たちも簡単な憧れや、誘惑に身を任せ、とんでもない結果を見ることになった話をよく知っていますし、経験したこともあるかもしれません。この息子に見習うべきは、素直に反省し、父に謝り、用意して行った言葉をそのまま、父に言ったことです。謝罪の内容を知っていてもそのとおりに言えないのが私たちかもしれません。この息子は、そのとおりにしたのです。

 次にテーマは、ずっと父の元にいた兄に移ります。なんとしても弟が赦せないのです。なぜならこの弟は罪を犯したからでしょう。私たちも罪を犯した者を赦せないときがありますし、この兄のような不平を申し立てることがあるようです。この兄は、主イエスが、罪人を赦すためにおいでになったのに、罪人を赦すことが出来なかったのです。聖書によく出てくるパリサイ人と呼ばれている人々がこれに当たります。

 私たちの救いはパリサイ人あるいは、いかなる人間が決めることでもありません。ただ父のお決めになることなのです。人と比較して神の救いや恵みを考えてはいけません。弟子たちでさえこのことを主に教えられています。

 ヨハネ
21:22には、イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」とあります。そのとおりなのです、この父の赦しの物語において、兄は、救いに関して如何なる不利益を受けたでしょうか。何の不利益もないのです。無限の父の愛を確認することは出来たでしょうが、何も失いませんでした。

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