≪先週の聖書から≫
★ 聖書の箇所は「ルカによる福音書」14:25〜34でした。
一回の説教ではとても足りないような範囲だと思いますが、クリスチャンとして救われた者の生き方を、主が教えておられるのだと理解しましょう。
けれども、いきなり、初めて読むとびっくりするような言葉に直面します。あなたの家族や、兄弟、姉妹、親、更には自分の命まで捨てなさいという言葉がそれです。聖書に詳しい方は、この戒めが、十戒の第五の言葉、あなたの父と母とを敬いなさい、に反していることが分かるでしょう。これは正しいといえるでしょう。
隣人の中の隣人、家族を愛さなければならないのは当然ですし、願いでしょう。しかし、人が人の力において人を愛することへの限界にも目を留めなければなりません。このことを望みつつ、現在は多くの「不幸」を生み出し、悲しい事件を作り出しているともいえるのではないでしょうか。
イエスは、律法を重んじる人々が、受け入れ難いような、この教えを通して、神から与えられた愛を教えておられるのではないでしょうか。
私の愛は神から与えられたもので、もはや私の限りある力に支えられたものではない、これほど力強い言葉に私たちは支えられているのです。「神が合わせたものを人は離してはいけない」、「およそ捨てる者はこれを得る」これらは全て、主の完全を教えているのではないでしょうか。
次の箇所に進みます。計画を立てて物事に着手することの重要性です。厳しい表現をすれば、クリスチャンとして過ごすときの心構えとも言えるでしょう。主により頼む、これは確かに、人の計画を超える、あるときには無謀さを含みます。どんなに充分に計画されたことでも所詮人のすること、なにがあるか知れませんし、そのことに対する備えも必要です。ビジョンといえると思います。ビジョンを何度も何度も、それが前のものと違おうとも、神様に期待し、ビジョン(願い)を持つことの大切さ知りたいものです。それは、私たちの毎日を豊かにしてくれます。実現したいことも願いも、今となっては何一つない、もし私たちがそう思ったときの不幸を思い浮かべてみれば、すぐに分かることではないでしょうか。
次に主は、この世全体を清く腐敗せずに保つ力を信仰者に求めておられます。これが「地の塩」という有名な表現です。このような、生きた存在が世の中を味わい深くするのです。
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